旧教育相談センター顧問をなさっておられた故・岡本佳雄先生は、1997年12月5日から隔週金曜日30回にわたって、「和歌山新報」に、「いま、子どもたちは」と題して連載されました。このたび、和歌山新報社のご好意を得て、「教育パンフレット」にすることになりました。
岡本佳雄先生は、本連載中に急逝され、「いま、子どもたちは」が先生の絶筆となりました。
教育パンフレット |
いま、子どもたちは
「和歌山新報」連載 |
岡本 佳雄 |
和歌山新報編集部まえがき 1、 「イラダチ」「ムカツク」子どもたち 2、 「言える親」・「言える先生」に 3、 登校拒否の前兆(登校拒否@) 4、 前兆の時のかかわり(登校拒否A) 5、 学校へ行けなくなった子ども(登校拒否B) 6、 親の不安と動揺(登校拒否C) 7、 担任の先生の家庭訪問(登校拒否D) 8、 回復へのいとなみ(登校拒否E) 9、 親のかかわり方(登校拒否F) 10、 選んで冒険(登校拒否G) 11、 親の会の役割(登校拒否H) 12、 学生クラブの役割(登校拒否I) 13、 再登校について(登校拒否J) 14、 登校刺激について(登校拒否K) 15、 自己肯定感を太らせて(登校拒否L) 16、 キャンプの果たす役割(登校拒否M) 17、 回復を支えるために(登校拒否N) 18、 登校拒否は本当の自分づくり(登校拒否O) 19、 今子どもは、今(子育て@) 20、 子ども時代を子どもらしく(子育てA) 21、 自分で選んで生きる(子育てB) 22、 自分の力でやってみよう(子育てC) 23、 人間は分別して生きる(子育てD) 24、 分別力を育てる教育(子育てE) 25、 子どもをたよる子育て(子育てF) 26、 子どもを信頼するお母さん(子育てG) 27、 「お前しか相談する人おらん・・・」(子育てH) 28、 「あの子は立ち直る・・・」(子育てI) 29、 「私の気付かないことまで・・・」(子育てJ) 30、 すばらしい子育ての道(子育てK) |
「学校ぎらい」「登校拒否」「いじめ」「非行」「落ちこぼれ」………。いま教育の現場ではさまざまな問題が激増しています。また学歴社会や受験体制の強化などにより、子どもたちが生き生き、のびのびと育っていきにくい状況が進行、父母や教師の悩みも多くなっています。
そこで本紙は「いま、子どもたちは」と題して新たな連載を始めます。執筆者は和歌山県教育相談センター相談員の岡本佳雄さん(七十)。登校拒否、非行、いじめなどのカウンセリングに長年取り組んできたベテラン。同氏のもとには、県内全域から大勢の人が相談に訪れています。人柄について本紙十一月四日付「人」欄で紹介しましたが、登校拒否児だけで八百人ものカウンセリングをしてきました。その豊富な指導経験をもとに、現代の子どもたちの、悩みや、子どもたちとのかかわり方について記していただきましよう。
平成十年十一月十日、くも膜下出血のため急逝。元和歌山県教育相談センター相談員、和歌山県国民教育研究所所員。
昭和二年和歌山県有田郡清水町生まれ。二十四年小学校教諭。小学校教諭のかたわら、昭和五十三年から湯浅町にあった生活法律相談所で相談員を勤める。六十三年退職。同年から平成六年まで、和歌山大学教育学部非常勤講師。
昭和六十三年、県教育相談センターを設立。センターの中心人物として、登校拒否児の相談などに尽力。著書に「デンスケの教育論」(部落問題研究所)など。
本紙はご遺族の了解を得て岡本氏の遺稿を掲載します。
私は、七十人あまりの相談員と一緒に教育相談の仕事を二十年ほど続けている。相談内容は、登校拒否・いじめ・非行・無気力・学力問題などさまざまだが、子育て、教育問題で悩み苦しんでいる子どもと親、先生が日を追って多くなっていることに驚いている。
老人の私から見ると、今の子どもたちは、食ベ物・服装・小遣い・持ち物など豊富で恵まれていて、昔の子どもと比べると幸せそうに見える。
しかし、内面は発達しづらくて、悩み苦しんでいる子どもが多い。ほとんどの子どもは、心理的に追い立てられ、急き立てられている想いが強く、「イラダチ」「ムカツキ」を覚えているようである。
私たちが、直接子どもから聞かされる悩みで多いのは友達開係である。
「友達がいない」
「どうしたら友達ができるの」
「友達がいるようで、安心して話のできる友達がいない」
「嫌われているようで心配になる」
「うまく遊び、つきあえるようになりたい」
など、友達ができない・少ない・いる場合でも、いつ壊れるかも知れないという「浅い友人関係」に、しがみついて暮らしていることが多く、不安や悩みをもつ子どもが激増している。
もう一つは、がんばっても、勉強についていけない焦りと、いつも急き立てられ、追い立てられている心理的不安の苦しさである。
本来子どもは、それぞれの持味や個性をもつ多くの友と遊び、違いをこえて交わり、その交わりを通じして学び合い、自信を深め発達を遂げるのだが、それが困難な状況におかれている。「勉強のできる(受験学力)子がいい子」という、かたよった人間価値観の社会風潮に押されて、多くの子ども達は塾や習いごと、家庭学習で忙しく、勉強の合間をぬって遊ぶのが実情てある。
どんなに頑張っても、指導要領に基づく教育内容(教科書)が、むつかしくなり、量が多くなり、八○%近い子どもが「ついていけない」「落ちこぼれ」と思い、自信を失っている。
今日の子ども遠の「イラツキ」「ムカツキ」は、このような状況の中から生み出されている。
子どもの側から見れば「子ども時代を子どもらしく(楽しく遊び、生き生き学ぷ)過ごし、家族の一員としての役割をもつ生活ができにくい」世の中であり、「遊び、発達する権利が奪われている」と言っても過言ではない。
子どもの「イラツキ」「ムカツキ」は子どもの責任ではなく「悩んでいる姿」としてとらえ、親や教師が、子どもの生活を共感的な「まなざし」で観る必要があるように思う。子どもに「どうかかわるか」については、次回から詳しく述べていきたいと思う。
最近、いじめについての親の相談も増えている。いじめられる相談に加えて「いじめているのでは」という相談もある。
いじめ問題で一番気になるのは、いじめられていることを親にも先生にも友人にも相談できないで、一人で苦しんでいる子どもが多いことである。
子どもの自殺が増えていることが社会問題になっているが、いじめで自殺した子どもに共通しているのは、いじめられている事実を親にも、友人にも、先生にも相談できなかったことである。いじめられて苦しんでいる時、親であれ、友人であれ、先生であれ、いじめられた事実をうちあけられる人が一人でもいれぱ、自殺はくいとめられる。
前回、がんばっても勉強についていけない焦りと、急き立てられ、追い立てられる心理的不安から「イラツキ・ムカツキ」を覚える子どもの状況について述べたが、このはけ口が「いじめ」になって広がっている。
しかも、いじめは「いじめられながら、いじめている」「以前はいじめる立場にいたのに、ある時期からいじめられるようになる」など複雑にからみあっている場合が多い。
誰かに助けてほしいと思いながら、事実をうちあけて助けを求めたことが知れると、「チクッタ」ということで、もっと怖い目に合うことをオソれて一人で苦しむことが多い。
私のかかわった中一男子A君(親・子)は事実を親にも先生にも訴えられないまま半年近く苦しみ、登校できなくなってしまった。(以下の記事内容は、役に立つなら話してもいいと親から許可を得ている)
A君は、友人同士でなぐり合いさせられたし、煙草を買いに行かされたし、服や品物をたくさん買わされたし、現金をまきあげられたり、中ぬけ・早退・遅刻もさせられていた。両親は、お年玉の金を使ってしまって追求しても答えないそぷりなどから、いじめられていることにうすうす気付いていた。
A君の話を開く間にA君が私に対して「本人に相談しないで口外しない人間だ」という確信をもてた頃から、いじめられた事実を話しはじめ、遺書も書いていることを語った。
「このことを親に言うとどんなことが心配か。先生に言うと予想される不安は何か」を話し合った。予想される不安への手だてを一つ一つ確かめながら、両親と先生に(二つの事実を除いて)訴える決心をして事実を訴え、親と学校の懸命な取り組みに支えられて、A君は自分をしっかり取りもどしたのである。
子どもが安心して、うちあけられる親を子ども達は求めている。うちあけた時、じっくり心をこめて聞くこと。聞いたとき親の考えで動くのではなく、「親だから、どんなことでも助ける。おまえが困ることをしてはいけないから、してほしいことを言いな」と呼びかけ、安心して話せるようなかかわりが最も重要だと思われる。先生方にも「本人が安心して事実を訴えられる先生」になることを望みたい。
学校へ行きたいのに行けない子どもの数は文部省の調査でも年々増加するばかりで過去最高を示し激増を続けている。
登校拒否とは、怠けやずるで休むのではなくて「学校を休むことはいけないことだ」「登校したい」と思っているのに、登校しようとすると、緊張と不安が限度をこして、身体的苦痛(はきけ・げり・頭痛・腹痛・めまいなどの第二次症状)がおそってきて登校できない状態になることである。
登校拒否は、ある日突然、発現するのではなくて必ず前兆が見られる。この前兆は個人差があって半年前後だったり、かなり長い期間の場合もある。
登校拒否とは、連続して学校へ行けなくなることだと思っておられる親が多いようだが、私たちは前兆を含めて登校拒否の問題だと考えている。
何事もないように登校しているように見えるけれども、学校で発達を阻害するような「緊張と不安」を感じて、心が引きつり、オドオド・ドキドキし悩んでいる問題を登校拒否問題だと考えている。
この前兆の特徴は「学校では元気そうに見えて、家では信号をおくる」ことである。緊張と不安が多くなり、心が引きつつて、パワーを失ってくると、かなり苦しいのだが、苦しそうにすると「あいつは暗い奴だと思われるのではないか」「みんなから嫌われるのではないか」と気をつかい、学校では明るく、にこやかに「ふるまう」のである。
例外を除いて学校では、しんどくても元気そうにふるまうので、先生や友人が気づくことは少ない。しかし苦しいので家では信号をおくることが多い。
「非行」は親よりも学校の先生が先に気づき、登校拒否は先生よりも親が先に気づくことが多いのである。
家庭でおくる信号は、その子によってさまざまだが、共通して現れるのは、
◎以前に比べてイライラする、怒りっぽい。
◎ものごとへのこだわりが強くなる。
◎夕方や夜の元気さに比べて朝は元気が弱くなる。
◎朝の食事・排便・洗顔・歯みがきなどグズグズして動作がにぶく時間が以前よりも長くかかる。
などの変化が見られることである。
しかし、グズグズはするが「学校へ行かない」とは言わずに登校する。学校では元気にふるまい、家で信号をおくりながらエネルギーを失い、限界をこすと、「助けを求めて家庭に逃げ帰る」(学校へ行けない状態)のである。
前兆の子どもたちの数は三○%以上だと言われている。前兆の段階で信号をうけとめ、適切なかかわりをすると、連続不登校にならないで元気をとりもどすことが多い。(前兆とのかかわりは次回で)
登校拒否は、ある日突然発現するのではなく、必ず前兆が見られる。登校して学校では「元気そうにふるまい」続け、苦しいので家では信号をおくることを@で述べた。
前兆と思われる子どもの変化に親が気づいたときのかかわり方によって、連続不登校にならないで回復することが多い。
かかわり方の、第一は、学校へ行くことを迫ったりしないで、温かく見守ってやることであろう。親がびっくりして不安になって動揺し、オドオドすると子どもの不安を助長することになりかねない。
第二は、温かく見守りながら、親が学習したり、相談員に早く相談することである。
第三は、子どもに行きづらい理由を、しつこく問いただしたりしないで、話しやすい雰囲気で、子どものしやべることに共感しながら心をこめて聞くことである。たくさんしやべらせてあげることである。
第四は、担任の先生に、家での子どもの様子や変化をリアルに知らせ、見守って下さるよう報告し、親と担任の先生と連絡をとり合いながら見守ることである。
三年ほど前、五年生の女の子の親と担任の先生が、子どもの様子がおかしいと気づいて相談に見えられた。(相談は秘密を厳守するが、この場合は参考にしてほしいと許可を得ている)
この女の子の場合、担任の先生は「最近この子らしくない文字の乱れが目立つ」ことに気づき、親は「朝はグズグズするし、登校前になると体温計をはさんで『熱ないわ』といったり様子がおかしい」と気づいて、母親と先生といっしょに相談に見えられたのである。この子どもはまじめで、うそやごまかしがきらいで、周囲の人に気をつかい、物事をきちんとする性格の娘さんだった。この子どもには考えられないような変化があらわれていた。
親と先生と相談員で話し合い、前述した四つのことを大切にしながら見守ることにした。
親は、「学校へ行くか休むかは、親や先生に気がねしないで、自分の体の調子と自分の心と相談して自分で決めたらいいんだよ」「病気の時は休むことが大切なように、心が疲れた時も休むことが大切なんだよ」
と呼びかけて見守り、先生も「しんどい時は休んでもいいよ。休んでパワーをつけることは大切なことよ」と声をかけて共同して、よりそい見守った。
子どもは、一週間に一日ほど「パワー休みします」と自分で先生に連絡して休み、登校する日は前のように、さっさと用意するように変わり、休んだ日は母親にたくさん、おしやべりした。
二カ月ほどすると休まず登校するようになったので、父親が、「おまえ、パワー休みせんのか」と問いかけると、「パワー休みは、パワーが切れた時だけやで。私は今パワー切れてないから休めんのよ」と明るく答えて登校を続けた。この子は合計十日ほど休んだだけで、その後は元気で過ごしている。
登校拒否は前兆の段階で適切な関わりをしてもらえないと、ふるまう力が限界をこして学校へ行けなくなってしまう。
多くの場合、本人は親や先生や家族に気がねして、夜は時間割を合わせて翌日の用意をし、「明日は学校へ行く」と言うが、朝になると発熱したり、頭痛・腹痛・げり・はき気・顔色が悪くなるなど身体的苦痛(第二次症状)を訴えて動けなくなってしまう。親が休むことを許してしばらくすると、身体的苦痛が消えることが多い。
ほとんどの親は我が子の幸せを願う親心から、子どもを励まして学校へ行かせようとする。
「ほしいものを買ってあげるから」「お母さんのために行って」「誰でも、しんどいと思う時があるんよ」「そんな弱虫はお母ちやんはいやよ」などと叱りつけたり、無理に車に乗せて送ったり、さまざまな方法で無理に登校させようとすることが多い。
年齢・タイプ・性格によって、さまざまだが、無理を迫られると、パワーを失った子どもは一層苦しくなり、顔色・目つきが異常になり精神的に不安定な状況におちいるのである。登校拒否は、「学校へ行くと自分を失ってしまうことを体で知って、助けを求めて家庭へ逃げ帰る」ことだと言われている。
ところで、登校拒否で悩むような子どもは例外を除いて多くの場合、「まじめで、やさしさがあり、うそやごまかしがきらいで、周囲の人に気をつかい、親や先生の期待に応えようとするよい子」である点で共通している。
学校へ行けなくなった子どもの言動はそれぞれだが、共通することは、「学校へ行かないで悪いことをしている」「自分は学校へも行けないだめな人間だ」という罪悪感・負目・自責で自分を責め、精神的葛藤が強く不安定におちいってしまうものである。
私のかかわった子どもで、登校しようとして玄関まで出たが、動けない自分を責めて、「ぼくみたいな者は死んだ方がましや」とつぶやき、コンクリートの壁を、こぶしで打ち、手の皮が破れて血が飛び散るのに打ち続けた子どもが、何人もいた。
本人とのカウンセリングで親しくなった高一の青年は、「つらいことばっかりや。父親の仕事にでかける『エンジン』の音と、戸のすき間からさしこむ光がこたえる。エンジンの音が、『みんな仕事や学校へ行くんだぞ、おまえはねてていいのか』と言われているように想うし、戸のすき間からさしこむ光も『昼やど、起きて学校へ行かんでもいいのか』と言われているようでつらい」と語ってくれた。
不登校になった子どもの葛藤と苦しさは大人が考えているよりも大きいのである。
登校拒否で学校へ行けなくなった子どもは一○○%回復すると言われている。親や家族、カウンセラ−や担任の先生や友人などとの適切な関わりの中で、本人の自己回復力によって回復を遂げるのである。
本人は、負目・罪悪感・自責で家庭に閉じこもることが多いので、初めは親や家族の次のような関わりが大切である。
その第一は、親が動揺や落ち込みから早くぬけ出して「明るく然(ゼン)とかまえる」こと、これが出来れば子どもは安定を取りもどしはじめる。
第二は、「学校や勉強のことで親や先生に気がねしなくてもいい。学校へ行くか行かないかは、自分の体の調子と、自分の心と相談して決めたらいい。無理しないで、ゆっくりパワーをつけたらいいんだぞ」と呼びかけて学校や勉強へのこだわりをはずしてやることである。
第三は、自分で出来ることで楽しいことをするように励まし、さしずや口出しを少なくして自己決定力を高めるよう本人に任せて、あたたかく見守ることである。
ところが我が子が学校へ行けなくなり、苦しむ姿を目の前にすると、どんな親でも激しい不安と動揺を感じ、落ちこむことが多い。我が子の幸せを願う親心から「明るく然とかまえて待つ」ことができないで落ちこんでしまうのである。
ほとんどの親は、不安と動揺と落ちこみから、知人や近所の人と顔を合わせるのも苦しくなってしまう。私の関わった多くの親は、知人と出会うかも知れない行きつけのスーパーヘ買物に行けないで、遠い所で買物をし、たくさん買ってきて冷蔵庫をいっぱいにしていた。
学校へ行きたいのに行けないで苦しんでいる姿を見て、我が子を想う親心が、深ければ深いほど、親の苦しさも大きいのである。落ちこんでいる様子を子どもに見せまいとして便所に入って泣き、思いなおして涙をふいて子どもの前で明るくふるまう親が多い。
心ない親類の人から「ゆっくり休ませたらあかんのとちがうか。親やから引きずってでも学校へ行かせなよ。そんなことしてたら長いこと行けんようになるぞ」などと言われると、一層動揺が大きくなってしまうのである。
親がこの不安と動揺から抜け出して明るく子どもとかかわるようになると、子どもが回復への道を歩き始めるのである。親が不安と動揺から抜け出す早道は、第一に信頼できる相談員を見つけ、相談しながら子どもの様子を落ちついて観察し、子どもの状況をつかみ、どう関わるかを見つけることである。
第二は、「登校拒否の子を持つ親の会」に参加して(月二回ぐらい集まって交流している)同じような想いで、悩んでいる親たちと語り合い、回復させた体験を聞き、学び合うことである。
回復した体験から、それぞれのちがいや共通点を学ぶことによって、回復への展望を持ち、回復しやすい関わりが出来るようになる。
子どもが登校拒否で学校へ行けなくなった時、親が登校をすすめると部屋に閉じこもり家族との交流を避けるようになる。しかし、親が子どもに共感し受容する関わりを続けると明るさをとりもどし家族との交流を再開する。
家族とは交流できても、例外を除いて、家に閉じこもり家族以外の人に会うことを避け、担任の先生や友人が家へ訪問してくれても会えないこどが多い。
登校拒否になった子どもは、自分のことを「学校へ行けない駄目な子ども」と思って、負い目と罪悪感で苦しみ、視線におびえているのである。
他者に対する不信と自分に対する不信に陥ってしまい、他人を警戒して、「今のままの自分で大丈夫だ」と思えないで落ちこんでしまうのである。
子どもに対する担任の先生の関わりで、最も大切なことの一つは家庭訪問であり、親への大きな励ましでもある。
しかし、家庭訪問をして下さった先生に会えない我が子を見て、親も不安に思い、担任の先生もに無力感を持つことが多いのである。
担任の先生が、体罰や威嚇などの目だつ先生の場合は別として、ほとんどの場合、担任の先生を嫌いで会わないのではなくて、警戒して会えないのである。何を警戒しているか子どもによって異なるが共通して多いのは、「先生が、学校へ行けない理由をお聞きになるのではないか」「学校へ行けない駄目な自分の姿を見られたくない」「先生から、学校へくるように言われるのではないか」ということを警戒して会えないのである。
同時に心の中で担任の先生に対して、「怠けやずるで学校を休んでいるのではなくて、行きたいのに行けない苦しさをわかってほしい」「学校を休んでいる自分のことを忘れないでほしい」という願いも持っている。したがって担任の先生の家庭訪問の目的が、先生と子どもの信頼関係を深めることで、学校へ来れない理由を聞き出そうとしたり、学校へ来るよう励ましたりしないことが大切である。
◎あの先生は、私のことをわかってくれているし、忘れないで思ってくれている。
◎先生は、私のことを駄目な子だと思っていないで心配してくれている。
◎先生のそぱにいると安心できるし、気が楽になる。
◎先生は、休んでパワーをつけることを、いいことだと思ってくれている。
と思えるようになると、先生の家庭防間をよろこび、楽しみに待つようになり、回復への大望な役割を果たすことになる。
会えない子どもに、親も無理に会わせようとしたり、先生も無理に会うことを求めないで、前述したことを基本にして、本人が安心できるような手紙を残して帰るようにすれば、やがて会うようになることが多い。
登校拒否は病気ではないので、その回復はラジオを修理したり、盲腸などの病気をなおしたりするように、外からなおせるものではない。学校へ行くべきだきだと思い、行きたいのに行けない自分を許せなくて、負目・罪悪感で不安定な状態に陥った子どもが、家族の関わりで精神的安定をとりもどす。
学校や勉強へのこだわりを少なくし、気分の安定を図り、失ったパワーを取りもどして、「自分くずし、自分づくり」を果たして回復するのである。
失ったパワーをとりもどす、「マイナスを」を「0」に戻すだけでぼなくて、本人の持っている「優れた面」には一層磨きをかけ、捨てる面は捨て、取り込む面は取り込んで新しい人格形成を図るのである。
登校拒否の回復ということは、「マイナス」を「プラス」に変える自分づくりの大事業なのである。
人間は自然や、社会との関わりを通じて発達する。とりわけ、人との交わりを通じて人間としての発達を遂げる面が多い。
登校拒否で家庭に閉じ込もった場合でも、先ず家族との交流で、精神的安定を取り戻し、やがて、家族以外の人との交わりを通じて、パワーをつけ回復への道をあるきはじめる。
家族といっしょに外へ出るとき、はじめは知っている人と会うことに緊張を覚えるので、近所ではなく、知っている人と会う機会の少ない、少し遠い所へさそうことの方が出やすい。「大阪の方ヘ行こうか…」とさそうと、行く気になることが多い。
登校拒否の回復のために、私たちは「五つの人間関係」が大切だと考えている。五つの人間関係というのは、「家族」「信頼できる大人」「本人より年上の人」「本人より年下の人」「同世代の人」との交わりのことである。
家族の役割は、学校や勉強のこだわりを外して、安定をとりもどし、安心と安らぎの中で、回復の状況に即した関わりを続けることである。
大人というのは、担任の先生やカウンセリングに当たる相談員、本人が信頼できる大人のことで、「罪悪感」「負目」「自責」などの辛さに共感し、今のままの自分で大丈夫だと思えるような関わりで自己肯定感を太らせる役割を果たす。
年上というのは三十歳未満の人が望ましく、本人が手のとどく年上の世代との交わりを通じて、自分の未来を見て展望をもつのである。年下の子どもとの交わりを通じて、頼りないことを言ったり、したりする言動に関心を持ち、自分の過去を見て自信を深めるのである。
同世代との交流は、前述した人々との交わりで自信を深め、緊張感が薄くなり、楽に交われるようになるようである。
これら五つの人間関係が、うまくそろうことはむずかしいが、出来ることから関わりをはじめることである。
私たちの相談所では、これらの人間関係をしやすくするために、和大学生クラブの計画する「一日行事」「三泊四日のキャンプ」、親の会と共同した「居場所」(レインボーハウス)、親子がいっしょに動く「ファームスクール」「中学生サークル」などを、ネットワークをつくって、色々な取り組みをすすめている。
前にも述べた通り、我が子が学校へ行けなくなり、家に閉じこもるようになると、親も不安と動揺を感じて落ちこんでしまう。はじめは、何とか学校へ行かせようとして、叱ったり、励ましたり「何でも買ってあげるから行きなさい」と迫ったりする。それでも動けない子どもを見て「自分の子育てだけが悪かったのではないか」と過去の子育てを反省して一層落ち込むことが多い。
学校へ行きたいのに行けない子どもにとって、親や家族の不安と動揺と落ち込みは、子どもの不安を助長して、子どもの苦しさを倍加させ、回復を遅らせることになる。親や家族が「デン」と構えて明るく見守ると、本人が安心して自分で回復への道を歩き始めるのである。親や家族が、明るく関われるようになるためには、親と共に悩み、じっくり話を聞き、いっしよに考えてくれる相談員のカウンセリングを受ける意味が大きい。
次に紹介する手紙は、登校拒否になった子どもの回復を、見事に支えた母親(和歌山市在住)の文章の一部だが、「参考にしてくれればうれしい」とお許しを頂いて紹介する。
「…ご相談をお願いしてから、丸二年、お世話になりました。もし先生にお会いできていなかったら、私達は子どもを、どんなにしてしまっていただろうかと想像しただけでも恐くなります。二年前の十二月、初めて夫と母と三人で、お訪ねした日は、夜中の十二時まで、先生は一度として時計に目をやることもなく、ニコニコと笑顔で、八十歳を超えた母にも分かるようにお話し下さいました。その優しさと説得力と子どもへの思いやりは、今でも忘れることはできません。
帰る車の中で『あの先生のように、わがらが子どもにしてやろう』と語り合いながら帰りました。その夜、私は布団の中で、我が子に詫びて涙を止めることができませんでした。それからの相談日は、私達両親にとって、一番大切な日となりました。爆発しそうになる心を抑えて、指折り数えて、相談日を待つ毎日でございました。
私達の子育てのまずさを、ただの一度さえ注意することなく、むしろ一つもいいところのない親を褒めて下さり、消え入りそうな心の火を、大きく燃やして下さり、心に余裕を持って、子どもに関わることができました。
しかし、その余裕も、心の狭い私達には一カ月が限界でございました。相談日毎に、エネルギーを注いでいただくことがなかったら、ここまで来ることが出来ませんでした。(中略)自分で十月から登校しはじめた娘は、とても元気です。毎日友だちと遊ぴ、スキーにもでかけ、小遣い全部を、友人の土産代に使ったようです。再登校をはじめてから欠席もせず、何もなかったように通学しております。体も心もたくましくなった娘を見ると幸せに思う毎日でございます。(後略)………」
この手紙を書かれたお母さんは親の会に入って経験を交流し「休んでいる間に好きなことをいっばいしなよ」と子どもに呼ぴかけたお母さんでした。この娘さんは現在、大学生活を送っている。
学校へ行けなくなって苦しんでいる本人に「カウンセリング」をする時、相談員の私たちは、しゃべり易い雰囲気を大事にして、子どもの話を聞くことを大切にしている。はじめは警戒して話せない場合が多いけれども、共感しながら聞いていると、安心感を持ち、ポツ、ポツと語ってくれるようになる。「学校や勉強のことは心配しないで、ゆっくり休んで、今、自分のできることで、楽しいことを見つけて、たくさんしたらいいと思うよ」
と呼びかけることにしている。
親や家族が、学校や勉強へのこだわりをはずす関わりをして、本人の負目・罪悪感が薄らいでくると明るさをとりもどして回復への道を歩きはじめる。
登校拒否の回復は、大胆な言い方をすると、「小さな冒険・中ぐらいの冒険・大きな冒険を、自分で選んで積み重ねて回復する」
と言えるように思う。
回復して再登校をはじめるようになるまでの子どもの言動を見ると、小さな冒険から大きな冒険を数十ぐらい実行していることがわかる。
書いてもいいとお許しを得ているA君(中一)の場合も、その例外ではなかった。
○部屋に閉じ込もり、食事も自分の部屋でたべていたのが、家族といっしょに食べるようになった。
○「遠い所へ遊びに行こう」と呼びかけたら外出した。(はじめは近くへ出にくい)
○自分で近くの小店へお菓子を買いに行った。
○つりに行きたいと言って親とつりに何回もでかけた。
○三ケ月ぶりに遠い所を選んで散髪に行った。
○親類の家ヘ、泊まりがけで遊びに行った。
○父親の写真機を借りて自転車で写真をうつしにまわった。
○友人たちと自転車で学校の近くまで行ってあそんだ。
○土、日にクラスの友人の家へ遊びに行き、泊まってきて、楽しかったと言った。
○友人の誕生会にさそわれて、悩んでいたが思い切って出席した。
○突っ張りの服を買いたいと言って、買ってきて着たりした。
○父親に口答えしなかった子が口答えしたり、説教めいたしやべり方をするようになった。
○止めてた塾ヘ、自分で「いっぺん行って見る」と言って出かけた。
など紙数の都合で書けないが、数十ぐらいのことを、自分で選んで実行した後、一年半休んで、登校をはじめた。現在では元気で高校二年の生活を送っている。
大切なのは、「今、自分で出きること」「楽しいと思えること」「自分で挑戦すること」である。
親や家族や関わりをもつ人々は、本人が選んで挑戦する冒険を、し易いように見守ってあげたいものである。
登校拒否は一○○%回復すると言われているが「学校へ行かねばならない」と思いながら行けないので、負目・罪悪感で本人も苦しいし、それを見る親も苦しい。回復の道すじは本人自身が失ったパワーを取りもどし、自分くずし自分づくりのいとなみを通じて回復を遂げるという点で共通している。しかし、この自分くずし・自分づくりの具体的な「いとなみ」は、本人の年令・性格・タイプ・趣味・特技・過去の経験などによって異なる。
親や家族の関わりは「本人の学校や勉強へのこだわりをはずしやすくし、明るくデンと構え、指図や口出しを少なくして、本人にまかせて待つこと」が大切だと言われるのは、それぞれの子どもが、その子らしく自己回復力を発揮しやすい関わりが求められるからである。
この「指図や口出しを少なくして、まかせて待つ」ことが、むつかしいのである。頭では理解していても、苦しむ子どもを見て「早く何かしてやらねば」と思う親心から、不安と動揺と焦りが生まれ、「まかせて見守る」ことができないことが多い。
その子どもに合わせて、まかせて見守ることが出来るようになるために、深い理解と励ましと支えになるのが「登校拒否の子を持つ親の会」である。
我が子の登校拒否を見事に回復させるすぱらしい関わりをされたお母さんが、私たちの相談所が発行している「手引書」に次のような手記を書かれている。
「……私は『何としても学校へ行かせなけれぱ』と思い、必死で子どもを励まし、叱りつけ、追いたて、どなりつけていました。
息子はいっそう元気がなくなり、『おなかが痛い』『頭が痛い』と玄関先に坐り込んで、もう一歩も動こうとしなくなってしまいました。顔をうつむけて、上目づかいに私をにらんでいる目と表情は、もう人間の目ではありませんでした。
私は『もう駄目だ。この子はおかしくなってしまった』と思い、自分の全身の力がぬけていくように思い、涙が出るばかりでした。その日から息子は、いくらやさしく呼びかけても、きつく叱っても動けませんでした。私は、どうしたらいいかわからず、毎日泣いてばかりいました。
私の息子は、小さい時からあまり無理を言わず、友達をいじめたりすることもなく、忘れ物もしないし、友達とよく遊び、親の言うこともすなおに聞くし、買い物に行ったときもおつりもきちんと説明してわたす普通の子どもでしたので、目の前がまっくらになり途方にくれてしまいました。
ある日、新聞で「登校拒否の子を持つ親の会」があることを知り、わらをもつかむ想いで出席しました。私の外にも同じように苦しんでいる方々がいることを知り、勇気づけられ、落ちつくことができました。
回復させた親から「指図や口出しをやめて明るく見守る」ことをされた体験を聞いて、私は何か気が楽になり『私も負けないように頑張ろう』と心に決めて帰ってきました。……(後略)」(くわしくは手引書参照)
親の会との出合いは、かなり重要な役割を果たすことになる。
最近、相談所に対して、学生クラブ「プラットホーム」についての質問が多いので、ふれておくことにする。
学校へ行けなくなると、負目・罪悪感で苦しみ「人間不信」に陥り「今のままの自分は駄目な人間だ」と思いこんで、自己肯定感を失ってしまう。
ここからぬけ出る営みとして「五つの人間関係」が必要であることは、前に述べてきた。
五つの人間関係の中で「少し年上の人との交わり」が、とりわけ大きな影響を与えるように思われる。その意味で、和歌山大学の学生クラブ「プラッートホーム」の果たしている役割はきわめて大きい。
「プラットホーム」は、十年前に和歌山大学で、登校拒否に関心をもつ学生たちによって結成されたクラブのことで、数十人の学生たちが活動を続けている「ボランティア集団」のことである。
毎週一回の学習会と、時々、合宿研究を持ち、二ケ月に一回、登校拒否の子どもたちに呼びかけた一日行事を計画(数十人以上が参加している)し、一年に一回、三泊四日の「キャンプ」を実施(六十名以上参加)している。
一日行事とキャンプで知り合った子どもたちと個々の「つきあい」を続けてくれている。(家庭教師として一週間に一回以上関わる場合は有料)
この十年間で関わってくれた延人数は三百人以上で件数も千人に近い子どもと直接かかわってくれていて、親と子どもたちを励ましている。
次に了解を得て参加者の親からの手紙を紹介する。
「先月、清水町でのキャンプでは、お世話をかけてありがとうございました。…略…子どもが不登校になって、友達との交流もなくなり、遠足への誘いもなくなり、家に閉じ込もるようになり、とてもキャンプへも行けるような状態ではありませんでした。でも元気のない割には、キャンプに行くという決心だけは変わらず、何とか参加させていただくことができました。自分一人閉じ込もるだけでなく、親の私にも、なかなか外出させてくれず、親も心身共にくたくたで心配しましたが、参加できて本当にうれしく思っております。
なかでも付きっきりで世話をしてくれた学生の藤原さんとの出合いを大変に喜んでおります。帰ってきてからも『美弥ちやん(学生)は私のことを分かってくれた。私の一番の友達や。』といつも言っております。自分の好きな人のベストテンを、よく話します。ときどき順序は変わりますが、いつも一位は美祢ちやんで、学生さんや相談員の名前が続きます。
『自分の家以外に、私の居場所があった。それはキャンプや』と言って帰りにみなさんからいただいた名刺を『私の宝物だ』と言って大切にしております。……後略……」
少し年上の人である学生たちとの交流は回復への営みを、支え励ます役割を果たしている。
学校へ行けなくなった子どものほとんどは、家に閉じ込もり、先生や友だちにも会えなくなることが多い。
親や家族が、いい関わりをしていると、だんだん明るさを取りもどし、元気になり、先生や友人とも会い、外出もするようになる。
回復のための「自分くずし・自分づくり」の営みを経て、回復してくると、自分で学校のことを話したりするようになる。
子どもが、かなり元気になると、親や家族は、再登校への呼びかけ・働きかけ(登校刺激)をしてやれば、再登校できるのではないかと焦りはじめる。
専門家は「本人に委せて見守るほうがいい」と言う人が多い。焦らずに見守る方が、本人が無理をしないで再登校できるからである。
基本的には、本人に委せて見守ることでいいのだが、子どもの回復状況や、年令・性格・タイプなどによって適切な登校刺激の必要な場合もある。
再登校のしかたも、十人十色だが、大きく分けると「無理タイプ」「ちょうどタイプ」「きっかけタイプ」「あとおしタイプ」の四つに分けられるように思う。
「無理タイプ」は、まだ回復が不充分だのに無理をして再登校しようとする。この場合は家族で遊びに行く計画などを呼びかけて「それが終わってからではいやなの?」と語りかけ、再登校の日を、自分でずらしやすく関わることが望ましい。
「ちょうどタイプ」は、本人が回復の状況に合わせて再登校の準備をし、親しい友人に、「次の土曜日に学校ヘ行こうと思うので、朝七時三十分に行くから家で待ってて下さい。七時三十分まで行かなかったら、先に行って下さい。」などと自分で、きっかけをつくって登校する。このタイプは、文字通りあたたかく見守るだけでいい。
「きっかけタイプ」は、かなり回復しているのに、自分で動いて「きっかけ」をつくるのが苦手で、どちらかというと、きっかけに応えて動くタイプである。この場合は、その子に見合う「きっかけ」をつくって、本人に委せて見守る方がいい。
「あとおしタイプ」は、回復しているのに、自分できっかけをつくるのが苦手だし、きっかけがあっても、すすんで動こうとしないタイプである。このタイプの場合は、きっかけをつくって呼びかけるだけでなく、友人や先生にむかえに来てもらって「行ってみない」と少し、あとおしをしてもらって登校をはじめ、そのあと安定登校した子どももいる。このように少し、あとおししてあげる必要のある場合もある。
これらのタイプで、「あとおしタイプ」は、ごく少数で、無理タイプも、それほど多くない。「ちょうどタイプ」と「きっかけタイプ」が多いようである。
いずれにしても、本人に対する登校刺激は、これらの性格・タイプ・年令と回復の状況を見ながら、相談員や担任の先生と相談し、本人に見合った関わりが求められるのである。
登校刺激には「元気を出して行きなさい」とよびかける「直接的刺激」と、「もう七時三〇分よ」とよびかけるなどの「間接的刺激」と、何も働きかけていないが本人が「学校へ行かないのは悪いことだ」と思い続け、負い目・罪悪感に苦しむ「潜在的刺激」の三つがある。
前述した通り、学校へ行けなくなって家庭に閉じ込もった時期は、すべての登校刺激をやめ、本人の「学校や勉強へのこだわり」をはずしてやって明かるく生活できるようにして見守ることが大切である。
登校拒否の回復は、再登校だけが回復ではなく、自分くずし・自分づくりを達成することであると言われる。
本人が回復を遂げて再登校する時も、それぞれのタイプがあり、その子に見合った関りが必要であることは前述した通りであり、無理な登校刺激はしない方がいい。再登校への呼びかけ・働きかけ(登校刺激)は、基本的には「本人に委せて見守る」ことが大切だが、年令(低学年)・タイプ・性格などによって、登校刺激の必要な場合もある。
登校刺激をする場合も「診断的刺激」「準備的刺激」「本格的刺激」の三つの形態が考えられる。
「診断的刺激」は、呼びかけに対して、本人がどんな反応を示すかを診断する意味の刺激である。子どもが担任の先生を信頼している場合なら、担任の先生から「次の土曜日に、クラスで焼芋会をするから焼芋会だけ来てみなさい。しんどかったら、無理しなくていいからね」などと極めて柔らかい呼びかけをしてもらって本人の様子を見るのである。
本人が元気をなくしたり、おちこんだりすれば、無理だと思えばいいし、先生が帰ったあと、親や家族に、自分で「先生が焼芋会のこと言うてくれた」などと明るく話をするようであれば、次の準備的刺激を用意して呼びかければいいのである。
登校刺激に対して、余り葛藤が見られない場合でも、すぐに動くことは少ない。呼びかけに応えようとして緊張や不安を感じて、すぐに動くことができないことが多い。呼びかけをうけて本人が考え、行けなかったあと、本人に対して先生が「自分で『行かない』と決めた。自分で決めるカをつけたね。君は、自分で行かないと決められるから、先生は安心して、又、楽しいことがあっだら誘うからね」と語りかけておくことが望ましい。
このように「診断的刺激」「準備的刺激」で不安感を少なくして、「本格的刺激」を呼びかけると苦しさが少なく登校しはじめることが多い。
ところで、登校刺激は、親や家族が呼びかけると苦しさが大きいので、先生や友人から働きかけてもらい、親や家族は急がさずに、あたたかく見守ることが大切である。
現在の子ども達は、どの子も「自己肯定感」を、しっかり持てないで苦しんでいる。
自己肯定感とは「今のままの自分で大丈夫」と思えることである。大人の場合「自己肯定感」を失ってしまうと、自殺に追いこまれてしまうと言われている。
多くの大人は、日本一すばらしい父・母とは思えなくても、仕事をして役に立っているし、父(夫)・母(妻)として家族のため役立っている。すぐれているとは言えなくても、今のままの自分で「まあまあ」だという「自己肯定感」を持って生きているのである。
学校へ行けなくなった子どもは、「みんなのように学校へ行けない。勉強もできない。こんな自分(今のままの自分)は駄目な人間だ」と思い、自己肯定感を持てなくなっているのである。
登校拒否の回復は、失った自己肯定感を太らせることからはじまる。本人は学校へ行けない負目・罪悪感に苦しみながら、今のままの自分でも大丈夫だと思える「自分さがし」を懸命にとりくみはじめる。
親や家族や相談員は、本人の「自己肯定感」を太らせる営みを、しやすいように支えることが大切である。
本人が「今できること」で「楽しいと思えること」を自分で選んでやりはじめるのを、支え励ますことが極めて重要である。
五年生の男子A君が不登校になった。家で半年ほど過ごしたが「何かしたい」と訴えた。
相談員の紹介で、農民組合の作業所に母親といっしょに働きに行きはじめた。
機械が好きで、手先が器用で、機転のきくこの少年は、機械の故障に誰よりも早く気付いて大人達を驚かせたりした。
登校拒否のことを勉強してくれた大人たちが、自己肯定感を太らせる関わりをしてくれる中で、二カ月間休まず、生き生きと作業を続け、見ちがえるほど明るさを取りもどした。
収穫期が過ぎて作業所の仕事が終わると、障害者の作業所のボランティアに通い、ここでも、みんなから信頼され、喜ばれて過ごした。
少年は半年近い、二つの作業所での生活を通じて、学校へは行けないけれども「まんざらでない自分」「ねうちのある自分」を見つけ、自己肯定感を太らせた。
それまでは、家でも暗く落ち込み、弟妹をひどくいじめたりしていたのに、いじめることが少なくなり、イラダチも消えて明るくなった。
この少年は、作業所での生活を通じて、自己肯定感を太らせたように見えた。少年は、六年生の一学期が始まる前頃から「学校へ行って見ようかな」と母親に語るようになった。やがて自分で友人をさそい、自分の家で焼きそば会を開いたりした。六年生から休みながら登校をはじめた。少年は母親に、「ぼく、やってみたいことが、まだ他にもあるんや」と語っている。
毎年八月のはじめに(今年【平成十年】は八月六日から九日まで)登校拒否の小中学生が参加する三泊四日のキャンプが開かれる。
このキャンプは、和歌山大学学生クラブ「プラットホーム」と「相談所」が主催し、「親の会」が協賛して計画するものである。
このキャンプに参加して、大きな変化を遂げる子どもも多いので、毎年参加希望者が多く申込順で〆切らざるを得ない。登校拒否回復のキャンプは、子ども三人に学生が二人必要だからである。今年も、学生が五十名だから、子どもは七十名しか参加できない。親とはなれて三泊四日を過ごすことは、パワーを失った子どもにとっては、かなり激しい緊張と不安を覚えるのである。
第一日目と第二日目は、人との交わりが苦しくて、集団活動に入れない子どもが多い。本人がションボリしている状態を長くしてはいけないので、子ども三人に学生二人が関わる必要があるのである。
こうした学生や参加者との交流を通じて気分がほぐれ、三日目と四日目は元気に活動するようになり、気の許せる学生・友人と交流して、生き生き活動するようになる。
学生は全員「二ックネーム」で子どもに近づく。「トニー」「マミー」「どひゃーん」「パンダ」と紹介して仲よくなる。
一応予定した、ゆったりした行事を子どもに呼びかけ、気長に本人が選んで動くのを励ますのである。
本人がしやべることを、気長に心をこめて聞き、共感する四日間を過ごし、交流を通じて、少しずつ人間不信からぬけ出し、自己肯定感をとりもどすのである。
親と離れて過ごす三泊四日の生活は、家で過ごす数カ月分の回復を遂げると言われる。
「ニックネーム」を太いマジックで、顔いっぱいに書かれて、子どもと走り回っている男子学生や、水てっぽうで体中に水をかけられ、ゆたかな乳房をあらわにして、逃げまわっている女子学生を見ると、胸が熱くなる思いを禁じ得ないと同時に、数カ月分の値打ちがあるという意味が納得できる。
親は、学校へ行けないで、閉じこもっている我が子を見守りながら、せめてキャンプへ行ってくれたらと願うのだが、子どもが動かない場合が多い。やっと車でキャンプ場まで来たが、車から降りしぶる事例も少なくない。
親が子どもに呼びかける時は「行ってみて楽しそうでなかったら、いっしよに帰ってきてもいいんだよ」「一日で、いやになったらいつでも迎えに行ってあげるからね」と逃げ道をつくりながら呼びかけた方が、行き易いようである。
キャンプが終わると、学生が、一人ひとりに用意している名刺を、好きな学生と友人とで交換する。多くの場合、キャンプ終了後、この名刺で電話や手紙の交流がはじまることが多い。学生は、この交流を大切にしてくれている。
本人が再登校を意識し始めると「あの学生さんに勉強を教えてほしい」と言い出す子どもも少なくない。
登校拒否は病気ではないので、手術をして外から回復させることはできない。パワーを取りもどし、本人が自分くずし、自分づくりを遂げて回復するのである。従って、親や家族や本人に関わる人々は、本人が自己回復力を発揮しやすいように支える営みが大切なのである。
前回は、学生サークルが計画実施している「親とはなれて過ごすキャンプ」と「一日行事」と「知り合った学生との交流」について述べた。
親の会と相談所が共同して行っている「ファームスクール」「演劇サークル」「中学生サークル」「自由に集まれる居場所」「フリースクール」「手芸・料理・工作・絵の集い」なども、子どもの回復を支える極めて重要なとりくみである。
本人の性格・タイプ・年令・得手、不得手・回復の状況によって、本人が選んで参加することになるが、子どもの回復を支える営みが豊かに用意されることが望ましい。
こうした取り組みは行政が積極的に用意すべきことだが、きわめて不充分な現状にあるので親の会や相談所や学生サークルのボランティア活動が中心になっている。
これらの取り組みについて、紙数の都合でくわしく述べることはできないが、それぞれ特徴をもっている。たとえば「ファームスクール」の場合は、
@教科書やノート・エンピツを使わないで手や足など体を使って学習する学校。
A子どもと親や家族がペアで入学する学校。
B登校日は一年で二十日、一年で卒業。
C入学すると二十坪の畑を持ち、いろいろな作物をつくる。
ことなどを基本にしているが、作物を育てるという「めあて」で親子・家族が共に労働することと、それぞれの家族のちがった生活を学び合い、家族ぐるみの交流が子どもたちに大きな影響を与えている。「少しあらあらしくて、しかしぬくもりのある家族」、「こまやかな、いたわり合いの深い家族」、「そこぬけにあかるい家族」、「しっとりとした家族」など、それぞれの家族のちがいを知り、ちがいがあっていいし、ちがいを大切にし、ちがいから学び合うようである。親とはなれて過ごす「キャンプ」とは一味ちがった意味で回復のいとなみを支えている。
「演劇サークル」の場合は、
@強い緊張と不安をもつ子どもが、声を出して台詞を言い演技するなどの表現活動で自己肯定感を深める。
A演劇をいっしよにするための避けがたい関わりで人との交わりの緊張感を越えていく。
Bちがった人柄や特徴を持つ登場人物に扮しての演技を通じて、人間不信を克服していく。
Cいろいろな役柄を演じて自分を見つめる。
D何回かの練習をくりかえすことで、失敗やまちがいをしてもいい。失敗しながら発達することがわかり、失敗をこわがらなくなる。
など、このサークルの活動を通じて自分くずし自分づくりを果たすようである。
私は二十年あまりの相談活動で、八百人をこす登校拒否の子どもと、その親と関わってきた。ほとんどの子どもは元気になり学校へ行ったり仕事をしているが、現在でも新しい数十名の子どもと親との関わりを続けている。
登校拒否は百%回復すると言われているが回復へのいとなみは本人にとっても親にとっても、かなり苦しいものである。
閉じ込もる子もいるし、苦しさをまぎらすために物をこわしたり、家族に暴言・暴力をふるう子もいる。一日に数十回も手を洗い、自分を責めて自分の体にきずをつけたり、手首を切って自殺をはかった子もいた。
しかし、親や子どもと関わってきた私の一番強く感じることは、つき合う間に、限りない尊敬の念を禁じ得ないことである。
不思議なことに、私が、その子や親に対して尊敬の念を強く感じはじめる頃から、子どもも親も本音で語りはじめてくれるようになることが多い。
関わった子どもは一人ひとりちがいを持っているが、どの子に対しても尊敬の気持ちが強くて「つきあわせてもらって幸せだった」と感激している。
私の関わったMさん(女性)は、中学校と高等学校へ行けないで苦しい生活を過ごし、大検を受けて合格し、医科専門学校に進んだ。
久しぶりにお目にかかって雑談していたとき「登校拒否を体験して、よかったと思うことがありますか」とたずねた。彼女は、「よかったかどうかは、死ぬまで分からないかも知れません。でも、登校拒否を体験して、私は変わったと思います。私は、いまの学校を卒業すると、けがや病気をされた人のリハビリの仕事をすることになるのです。私は、もともと、何事も、きちんとやらないと気のすまない性格でした。宿題を忘れたことはないし、文字も何回も消しゴムで消して書きなおすタイプでした。ですから、仕事について、リハビリの訓練を二十回やることになっていれば、患者さんにその二十回の訓練を激しく迫るタイプだったと思います。
しかし、今の私は、二十回のリハビリをしようとするとき、『今日は十五回だけがんばりましょうね。あとの五回分で、一緒にアイスクリームでも買いに行きませんか』と言ってしまうと思うのです。
そうすることが正しいか、まちがっているか分かりませんが、今の私は、そうしないではいられないように変わったと思います。
私の学んでいる現在の学校は、短大卒業生が半数以上と、高校卒の人ばかりで、大検は私一人なんです。ときどき、いろんなことを言われますが、前の私だったら激しく気にすると思うのですが、あまり気になりません。『私は変わってるでしょう。一人ぐらい変わり者がいてもいいでしよう』と思うようになりました。それでいいのだと思っています」と語ってくれました。
この女性だけでなく、登校拒否を克服した人たちは、その人なりに「今の自分で大丈夫だ。自分らしく生きていく」という、より人間らしい人格形成をはかっているように見える。
登校拒否は外側からの価値観を押しつけようとする社会のあり方、受験学力にかたよった画一的な学校や教育のあり方に抗して、自分で考え自分でえらび、自分でなっとくのできる生き方を求める「自分づくりの大事業」だと言えないでしょうか。登校拒否は教育のわき道ではなくて、本当の教育のまん中を歩いているように思えてならない。
最近の新聞・ラジオ・テレビなどで、よく「子どもの新しい荒れ」が報道される。前は「どんな子どもが問題を起こすか予想できたが、今は、よい子と思われる普通の子が突然きれる…」「むかつき、イラだち、キレると何をするかわからない」
など、子どもが怖くなるような報道が目立っている。イラだち、悩む子ども達が激増し、深刻さを深めている反映としては、納得できるが「新しい荒れ」と決めつけているようで、私たち相談員は違和感を覚える。私たち「和歌山県教育相談センター」は七十名の相談員で、この十年間に、電話相談を除く面接相談だけで「四千八百件(三万三千四百回)」をこす相談を受け、子どもと親と一緒に考えてきた。
私たちは「荒れ」や「崩れ」や「ゆがみ」には、新しいも古いもないと思っている。子ども達の「荒れ」や「崩れ」は、正しい解決の道が開かれない限り、「姿」「形」を変えて表れるはずである。どんな「姿」「形」であれ、子ども達が自分が抱いている夢を目指して、必死に生きようとして「もだえ」「悩み」「苦しむ」姿だと思われるのである。
自分の夢を持つこと、夢に向かって生きることを「はばむ」ものに対して、必死に抵抗し、おしつぶされて悩んでいる姿であり、決して、あきらめていない子ども達の叫びだと思えるのである。
私たち、親と教育間係者は「新しい荒れ」をどう受け止めたらいいのだろうか。
人間として豊かに発達し、自分の夢を持ち、それに向かつて生きようと願う子ども達が「人間らしく生きる」ことが困難な状況の中で「もだえ」「苦しみ」助けを求めて訴えているのだと受けとめるべきだと思う。「人間らしく生きる」ことが出来づらい状況を見つめなおし、子どもの立場から考えることが大切である。
文部省などのいう、「心育て」を押しつけようとしても、一層子どもが見えなくなり、「何をしでかすか分からない」と、我が子や教え子が怖くなって「子どもにさからわないで…」ということにもなりかねない。
私たちは、今まで多くの子どもの相談を受けてきたが、初めから本音を語ってくれることは少ない。自分をとりまく、すべてのことに不信を待ち、今のままの自分は駄目な人間だ、と思って「自己肯定感」を失って悩んでいる。
しかし、何回も会い、教える人と教えられる人という関係ではなく、人間と人間の対等の「つきあい」を続けていると、ポツリ・ポツリと本音を語りはじめる。
本音で語り合うようになると、その子どもの考えていることに共感が持てるようになり、尊敬の気持ちを感じることができる。
その子に対する共感が広がり、尊敬の念が深まると、本音のやりとりが強くなり、きびしく迫り合うこともできるようになる。
「新しい荒れ」と言われる問題を子どもが「荒れ」ているので「心育て」の説教をするという立場で接するのか。人間らしく生きようとして、はばまれ、苦しんでいる子どもの「叫び」として受けとめるのか。受けとめ方を間違えてはならない。叫びとして受けとめ、どう関わるのか「子育ての具体的なことがら」について次号から述べることにする。
「新しい荒れ」と言われる深刻な問題を生み出している要因の一つに「子ども時代を子どもらしく生きることがむづかしくなった」ことが挙げられる。
「子どもらしく生きる」ということは「子どもらしく楽しく遊ぶ」と考えてもいいと思う。人間は発達段階に即して発達を遂げる動物だからである。
たとえば、四−五才の頃の特徴を見ると、友人とけんかしても「仲なおりの名人」であり、あそびを通じて、なんでも、じまんできる「じまんの名人」の時代である。
四−五才の頃は、仲よくあそんでいても、しばらくするとけんかする。私の息子が小さい頃、隣にS君という同年令の仲のいい友人がいたが、よくけんかをし、けんかすると、「もういね(かえれ)」と追い出そうとする。S君も、「もう、きちゃらへんからな」とやりかえして帰ってしまうことが多かった。
しかし二十分もすると、私の息子が、「お父ちやん、S君があそびにこんなあ」と言うので、私は、「おまえが、もうくるなと追い出したんとちがうか」と、いうと、息子は「いうても、きたらええんや」と言うし、S君も、そこらをうろうろしていて、「あそぼう」と息子の呼びかけに、さっさと入ってきて、何事もなかったように遊んでいた。
大人は、一度、トラブルがあり、感情をきずつけ合うと、なかなか和解することができない。形の上で和解しても、こだわりが続くことが多い。四−五才の頃は「仲直りの名人」の時代なのである。この時期に、たくさん「けんか」して、たくさん「仲なおり」をすることが、人との交わりの力、トラブル解決の力をも太らせることになる。
何のわだかまりもなく、心から「じまん」し合えるのも、この時期の特徴の一つである。
近所の子ども同士で「じまん」し合うのを聞いているとおもろい。私の息子の友人のA君が、「ぼくとこの自動車、B君とこの自動車よりええぜ」と、じまんすると、B君も息子も、どこがええのかと迫まる。「まどが、スイッチであくで」と得意になる。それをきいていたB君が、「ぼくとこの自動車の方がええぜ、人ものれるし、荷物もつめるぜ」と、じまんし、みんなも、それを認めていた。
ここでは、二百万円の新しい乗用車よりも、十八万円で買った中古の軽トラックの方が勝つことになる。これをきいていた、家に自動車のないS君が「おまえら『玉虫』あるか。ぼくあるぜ」と言って、「玉虫」を持ってきて見せ、みんなを驚かせ、うらやましがらせた。この時は二百万円の車よりも、玉虫の持主S君が天下をとったようによろこび、みんなも、それを認めていた。
たくさん、じまんし合い、くやしがったり次に、じまんできる「たからもの」を自分で探し、胸をおどらせるのが四−五才の子どもなのである。
こうした子どもらしい「あそび」「けんか」「じまん」を、たくさん体験して、子どもらしく生きることが、人と交わる力、表現能力、学習への意欲を育てるのである。今の子ども達は、この子どもらしい生活がしにくい状況に追いこまれている。
私は四十年間小学校の教師をしてきたが、後半になるほど、子ども達が「自分で考え、自分で選んで生きる力」自立の力が弱くなっていくようで心配になった。
定年退職する三年ほど前に担任した子どもたちに、朝の様子を聞いてみた。
○朝、おうちの人に起こしてもらって起きる。
○「はよ顔を洗いなさい」と言われて洗う。
○「はよ、食べなさい」と言われて食べる。
○「はよ、うんこしなさい」と言われて便所へいく。
○「はよ、時間割合わしな」とせかされて合わす。
○「はよ、でかけないとおくれるぜ」とうながされて家を出る。
という具合で、起きる時から、出かけるまで、おうちの人にせかされ、追い立てられるようにして家を出る子どもが多かった。
忘れものも多かったので、私は、「先生も、小さい頃忘れ物が多くて、叱られたことがあったよ。今日は、忘れ物をする理由を、あるだけ、いくつでも書いて下さい」と呼びかけて、忘れ物をする理由を書いてもらった。
「お母さんや、おうちの人が言うのを忘れるから」という理由が六○%近くだったのに驚いた。
ある子どもは、ていねいに次のように書いていた。
「先生、ぼくのお母さんは、毎日、口ぐせのように『忘れ物ないか』とか何回も言うのです。うるさくて、いやになるほどです。『うるさいわ』と口ごたえすることもあります。でも、時々、忘れて言わない日があるので、ぼくは忘れものをするのです。ぼくのお母さんが忘れっぽいので、ぼくは困っているのです。」と書くいていたのを、みんなの前で読んで聞かせたら「ぼくとこも同じだ」と共感する子どもが多かった。
私が教師になって間もない頃も「忘れものをする理由」を書いてもらったことを思い出したが、親のせいにする子どもは、ごく少数で、みんなの中で恥ずかしがっていたのと比べて考えさせられた。
人間以外の動物は、本能的行動様式で生きているが、人間は、自分で考え、自分で選んで生きる動物だのに「人間らしく生きる力」が衰弱しているように思えて心配だった。
その頃、私は小規模校の四年生を担任していて、一学級の児童数も二十人ぐらいだったので、子どもたちと話し合ってみようと思った。
@朝起きること
A宿題など家での勉強
B忘れ物のこと
この三つのことを、おうちの人に言ってもらわないで、自分の力でがんばることを呼びかけた。
子どもたちの書いた「忘れ物をする理由」をプリントして配り「起きること」「家での勉強」「忘れ物」の三つについて、おうちの人に言うてもらわないようにたのんで、自分の力でがんばつてみようではないか、と呼びかけて話し合った。
「言うてもらわなかったら、遅刻する子が多くなり、勉強が遅れると思う」
「言うてもらわないと忘れ物が増えると思う」
などの意見が多くて、呼びかけが、つぶれそうになったので、私は、
「いろいろ考えてみようね。先生が黒板に書くことについて、自由に話し合ってみて下さい」と呼びかけ、
@一番えらい子………おうちの人に言うてもらわないで三つのことができる子ども。
A二番目にえらい子………おうちの人に言うてもらわないで、自分で起きたが遅刻し、宿題ができず、忘れ物をした子。
B三番目にえらい子………おうちの人に言うてもらって三つのことができた子ども。
と板書して「先生は、みんなに二番目までに入れるようにがんばつてほしいと思っているんだよ」と問いかけてみた。子ども達は口々にしやべりはじめた。
「二番と三番がまちごうてる」
「二番と三番が反対とちがうか」
「三番の方がえらい子やで」
「一番目は自分の力で、ちゃんとできてるので、それでいい。二番目はできてないし、三番目はできてるから三番目の方がええと思う」
「ちこくしても自分で起きたんやから、えらいとこもあるぜ」
「三番目なら、ぼくでも、かんたんにできる」
など話し合った末、このことを宿題にして考えて来てから、明日の学級会で話し合うことにした。
翌日の話し合いでも、二番目と三番目のどちらがいいかは結論が出ないまま、それぞれの子どもが親宛に「自分でがんばるから言わないでほしい」という手紙を書き、担任からも、経過とお願いの手紙を書いて、○月○日から自分の力でがんばることになった。
おうちの人に言うてもらわない第一日目に私は、いつもより三十分も早く登校したが、半数近い子どもが登校していたのには驚いた。一時間目の道徳の時間に、朝の様子を発表し合った。
「ぼくが起きて台所へ行ったら、お母ちやんがもう仕事していたので、びっくりした。『おはよう』と言うたら、お母ちやんが『おはよう』って言うて笑ってるんや。ぼくが座ってたら、お母ちやんがちらっちらっとぼくを見てるんやぜ。言わんでも顔洗うか見てるんやぜ、おもしろかったぜ」
と次々と同じような発言をして、「同じや」などと共感の声が起った。目さまし時計を二つ用意してやっと起きれたという子もいたし、二人は本当に遅刻した子もいたが「おうちの人に言うてもらわずにおきたのだからすばらしい」とみんなで拍手してほめたものだった。
こんなことだけで自立が果たせるとは言えないが、自分の力でがんばるねうちがいくらかでも広がって、子どもの中に変化が見られた。
現在の子どものゆたかな発達を保障するためには、教育・子育ての本質問題を考える必要がある。
子育て・教育の本質を考えるためには「人間とは何か」をはっきりつかむことが大切である。人間と人間以外の動物(犬や猫や猿など)とどこがちがうかを考えるとわかりやすい。
生まれたときを比べると、人間の子どもはきわめて未熟に生まれる。人間の赤ちゃんは親がだきあげて乳をのませ、かなりの期間、手厚い子育てを続けないと死んでしまう。一人前になるためには二十年近い歳月をかけて発達を遂げるのである。
それにくらべて、人間以外の動物は、生まれた時に、ほぼ親に近い力を持って生まれる。犬でも馬でも猫でも、生まれると間もなく自分で立ちあがり、親の所にはいよって、自分で親の乳を求める力を持っている。
大ざっぱな言い方をすれば、親と同じ機能・はたらきを持って生まれおち、あとは肥え太って、たくましくなれば一人前だと言える。
動物の中で最もすぐれているはずの人間が、なぜ長い歳月をかけないと一人前になれないのか。
それは、人間以外の動物は「本能的行動様式」で生きるが、人間は、一つ一つのことを自分で考え、えらんで生きる(昔の人は分別して生きると言ってきた)動物だからである。
一つ一つのことを自分で考え、自分で分別して生きるところに人間だけか持っている特徴が見られる。本能的に生きる人間以外の動物に比べて、人間は「晴れているから洗濯をしておく」「明日は何時に起きるか」を分別して生活し、むずかしいことだが「よいことと悪いこと」まで一つ一つ分別して生きているのである。
しかも、男女・年齢・知能指数などにかかわりなく、人間は、それぞれに分別して生きる力を身につけるために、多くの歳月を必要とする。
ところで、この分別は、よい方へ分別する人もあれば、悪い方へ分別する場合もある。
ゆたかな分別力にみがきをかけるために人間は、読み書き算の基礎学力や自然・社会科学も学ぶのである。
受験学力だけをたくさんつければ、すぐれた人格形成をはかれると思うのは大まちがいで、分別力にみがきをかける子育て教育に力を入れないと、豊かな人格形成を遂げることはできない。
子どもを学校へあずける親たち「先生だからこそ、ゆたかな分別を持った先生に担任してもらいたい」と思っているし、ゆたかな分別力を持った父母に育てられる子どもは幸せだということになる。
子どもは、親からの遺伝子をうけ、その家の子どもとして生まれるが、どの国の、どの家(環境)に生まれるか、どの遺伝子を受けるかを選ぶことはできない。選ぶことなく、受けた遺伝と環境を背負って生きなければならない。
ところで現在の社会は、受験学力には力を入れるが、人間の特徴である分別力にみがきをかける教育と子育てが弱まっているのではないだろうか。
前回は、人間以外の動物は本能的に生きるが、人間は一つ一つのことを、自分で考え、迷い、自分で決めて(分別して)生きる動物であることについて述べた。
しかも、大人になってから分別をはじめるのではなくて、年令・性別・知能指数に間係なく分別して生きるのである。
分別力を育てるためには、小さい頃に、まちがいや失敗をたくさん体験する必要がある。
小さい頃、自分でえらんで遊び、失敗をくりかえして「こうした方がよかった」と気づいて分別力にみがきをかけるのである。
子どもがまちがいや失敗をしたとき、事情や経過を聞かないで、激しく叱りつけることを繰りかえしている親や、先生の前では、失敗やまちがいをしたことを、ひたかくしにして本当のことを言わないことが多い。
言えば、叱られるだけという体験のくりかえしの中で「うっかり言えばひとい目に合うからかくす」という分別を身につけてしまうのである。
失敗した子どもに、あたたかいまなざしで接し、
「先生も四年生の頃、……な失敗をして困ったことがあったよ。失敗しながらかしこくなるんだから大丈夫だぞ。先生もいっしょに考えて、助けられることは助けてあげるから大丈夫。くわしく話してごらん」
と呼びかけて、共感的な態度で、話しやすい雰囲気の中で、ゆっくり聞いてやると、しやべりながら自分で考え、解決の道を自分でみつけ出すことが多い。
「わかった。君がそうしたいのなら、先生もいっしょに、あやまりに行ってあげる。ゆるしてもらえるまで、いつしよにあやまろう。これで、君は大切なことを見つけたね」
というように、分別によりそい、分別を励ます教育や子育てをしてもらえている子どもは、率直に事実を語り、自分で解決の方向を見つける分別力を太らせるのである。
分別して生きるという特徴をもつ人間(子ども)は、独得の孤独さを持って生きる動物であり、だからこそ人間はすばらしい存在なのである。
ところで、この人間だけが持つ分別力をつぶすかかわりは「強制とおしつけ」である。
家庭の子育てであれ、学校の先生方の教育であれ、「強制・おしつけ」を強めると分別力が衰弱し、指示待ち族になってしまう。
現在の子どもたちは、あやまった早期教育論による、発達段階を無視した子育て・教育で苦しんでいる。
ほとんどの子どもは、しっかり勉強して、受験学力でいい成績をとり、いい学校へ入るための勉強に追い立てられ、急きたてられていると感じている。
自分で考え、自分でえらぶことが少なくなり、べルトコンベアーにのせられて動いているようで、分別力にみがきをかけるいとなみができないで、もだえている。
「しっかり勉強せよ」と追い立てるのも「子を想う親心」だが「分別して生きる動物」だという人間の特徴にふさわしい子育てを考え、親の高い分別(本当の親心)を子どもたちは願っている。
十年前、中二(男)の「非行」で悩むお母さんの相談を受けた。二年あまりで克服したときお母さんが、「私の体験が、困っている方のお役に立つなら、どこでも話して下さい」と、お許しをいただいているので、このお母さんの、すばらしい子育てを紹介したい。
父親が病死、母親と息子(中二)娘(小六)の三人暮らしで、四十二才だというお母さんと初めて会った時、顔色が悪く、疲れていて、五十才ぐらいに見えた。
二人の子どもをかかえいたお母さんは、昼は倉庫番の仕事をして一日六千円を稼ぎ、夕方帰って大急ぎで夕食と朝食を作り、ひと眠りして、夜中の十二時半頃に起き、午前一時から翌朝の五時まで、弁当を作る仕事で五千円を稼いで二人の子どもを育てておられた。
小六の娘は勉強も熱心で成績もよく、やさしいのだが、中二の長男が、中一の夏頃からぐれはじめ、親の言うことも、先生の注意も聞かなくなり、遅刻・中ぬけ・早退・授業のとび出し・ローカを自転車でのりまわす・万引き・単車窃盗・無免許警察留置・シンナー吸引・深夜徘徊などを繰リかえし、注意しても「おまえらに関係ないわ」と聞こうとしない。
三日にあけず学校から電話が入るので、電話のベルが鳴ると、ドキドキして受話器をとるのが恐い。学校へ呼び出されると、先生への申し訳なさと苦痛で足が重い。 子どもが中学生になった時の費用などと、いくつかに分けて入れていた預金通帳(五つ)も持ち出して使ってしまう。どうしたらいいのでしようかという相談であった。
一時間近く、ほとんど泣き続けながら語るのを聞いて、私もつらくなった。
眠る時間も少なくし、必死に働き続けるお母さん。我が子を想う親心から疲れきった体をおして相談に来られた姿に私は感動した。
「ぼくだったら、とても、こんなにがんばれないけど、お母さんのがんばりに驚きました。体は大丈夫ですか」と聞くと、
「私は頭は悪いけど、体だけは丈夫なんです。疲れますけど大丈夫です」と答えて、はじめて見せてくれた笑顔を見てほっとした。私はお母さんに、
「お母さんの話を聞いて、ぼくも励まされました。これから、一カ月に一回、お母さんと会って、いつしよに考えます。
とりあえず、これから、家で二つのことをがんばって見ませんか。その一つは、注意せんなんことが多いんですが、それはやめて、週に一回ぐらい『シンナーだけは体に悪いからやめな』と言うだけにしませんか」と呼びかけると、お母さんは、
「注意するのは、シンーナーだけでいいんでしょうか。それはとてもうれしいです」と、ほっとされたようだった。
「もう一つは、家のことを子どもに相談するようにしましょう。たとえば、台所を直すとか、単車を買い換えるとか、親戚の冠婚葬祭をいくらにするとかなど、子どもに相談することです」というと、お母さんは、
「それは無理です。聞きません。そんな相談が出来るぐらいなら、私はここへ相談に来ません。『関係ないわ』と言って飛び出しで行きます。相談にならないです」と言われて、つらそうに泣いておられた。
「子どもと相談するのは無理です。聞かないで飛び出して行きますから」と言われたお母さんに、私は、
「飛び出して行く子どもに、大声で『相談する人はおまえしかいない。買うてもええか考えといて』と叫ぶようにしませんか」と励ますと、お母さんは、
「聞く気はないと思うけど、叫ぶだけなら、私は声が大きいですから…」と笑顔を見せてくれた。
「学校の先生や児童相談所の人からも、家で注意することを、たくさん言われるし、言われても出来ないし、困っています。二つだけですからうれしいです。がんばってみます」と言われた。こんなに苦しい方に、話を聞くだけで何もできないのが申し訳なくて、次回を約束し、握手し別れた。
二回目に相談に見えられたとき、お母さんは、子どもにあまり変化がないと言われ、シンナーの注意について、「お母さんの白髪がふえるからやめなよ」などと言い方を変えて注意を続けているとのことだった。
子どもに相談することについては、本人が家でいる時に、「お母さんは、相談できる人はいない。おまえしかいないんだから…」と呼びかけたが、「ぼくらに相談しても、あくか」と、どなっただけで、まともに聞いていないということだった。私は、
「お母さんの『相談できる人はおまえしかいないんだから」という言葉が、子どもに通じたので「ぼくらに相談しても、あくか」と言ったのではないでしようか」と励まし、心をこめて相談を続けることを申し合わせた。
この日は妹さんのことを尋ね、お母さんは娘さんのことをたくさん語ってくれた。泣いたり、笑ったりされながら、心やさしい、すばらしい様子を話された。私は、「こんな、すばらしい娘さんを育ててこられたのは、○○さん、あなたですから………」と言うと、「私は駄目な母親ですが、あの娘は、じまんできる子どもだと思います。あの娘がやさしくて、しっかりしているのです。私はあの娘がいるので生きていけるのです」と言われ、三回目に会う日の約束をし、握手して帰られた。
しばらくして、お母さんから何回目かの電話をいただいた。「先生ですか」といって、すぐ泣きはじめたので(いいことでも悪いことでもすぐ泣くお母さんだが)何か困ったことが起こったのではと思って聞いていると、「先生、うちの子は立ちなおれると思います。私の相談することを聞いているようです。……昨ばん、私のイトコの出産祝いに行ったことを、下の娘に話していました。『○○さんとこへ五千円つつんで出産祝いに行ったけど、かわいらしい男の子が生まれていた』と話しているのを息子がテレビを見ながら聞いていて、「ウラ、祝いに行く話し聞いてないぞ』と言っておこり出したのです。
私は、うれしくなって涙がとまりませんでした。『あれ、お前に相談したと思ってたけど言うてなかったか、ごめん、ごめん』と泣きながらあやまったのです。あの子は私の相談を聞く気になっています。立ちなおると思います………」
この電話を聞きながら私は、シンナーを吸っでいる子どもを信頼して、本気で相談するお母さんに拍手をおくりたい気持だった。
「今日は、子どもと、先生に隠してたことを相談してほしいのです。許して下さい」と謝ってくれてから、
「私は、小きな額の貯金通帳は五つとも家に置いていて、あの子に、みな使われてしもたことは先生に言いました。
実は、あれ以外に病気になった時のことを思って二百万円貯金しています。あの子に見つからんように友人に通帳をあずけています。
あの子に相談して暮らしてるのに、二百万のことを隠しているのが辛いので、言おうと思うのですが、言うたら使うでしょうか?先生はどう思われますか」と聞いて下さった。こんなことを聞かれることがあるので困ることが多い。私は、
「お母さんは、どう思われますか」と尋ねた。
「私は、使うのと、使わんのと五分五分だと思うんです。でも、使われても仕方ない。言いたいのです」と、子どもに話すことを心に決めておられるようだった。私は、
「子どもに、どんな話をされるおつもりですか」と聞くと、
「隠していた理由も正直に話して、隠していたことを謝るつもりです………」と、使われてもいいから、息子に話し、謝りたくなった想いを話して下さった。
聞いていた私は、感動につつまれ、胸が熱くなり、母親に対する尊敬の念が深まるのを覚えた。二時間ほどの母親の話が、短いように思えた。長い母親の話に、私は心からの共感の言葉をおくるだけだった。
「もう、こんな時間です。すみません。子どもに謝って話します」と言うお母さんに、
「お母さんの心が、いつか必ず通じますよ。話しを聞いてると、話しても子どもは使わないと思えてきました」と答え、握手して別れた。
相談してから五日後の昼、母親から電話があり、遠慮深く、しかし少しはずんだ声で
「社長さんに、昼の休憩時間に先生に電話するお許しをもらっています。二百万のこと子どもに話しました。相談から帰ったら、めずらしく息子が家に居たので『おまえに隠してたことがあるので、謝りたいから話聞きなよ』と言うと私の部屋へ来ました。貯金通帳を前に置いて『この貯金を、おまえに隠して、通帳も○○さんの家へあずけてたんや。誰かが病気になった時の為の貯金やから。おまえに見つかったら使われてしまうと思って、隠してたんや。けど、お前に相談してるのに、隠してるのがいやで、辛抱できんようになった。今まで隠していたことを謝るから許してほしい…』と泣きながら、いっきにしゃべりました。息子は『貯金ていくらあるんな』と聞くので、通帳をわたしました。息子は、一・十・百・千と数えて、『これ二百万とちがうか』と念をおしてから『おまえ、あほか、こんな通帳、ぼくに見せたら使こてしまうのがわからんのか』と言うので、『おまえしか相談する人おらんのに、隠しごとして相談らできんもん。ここへ通帳も印も置いとくから』と言って仏壇の下の引き出しへ入れました」
隠していた二百万円の貯金のことを子どもに話してから、五日後の電話を、私は少し楽しい気分で聞くことができた。
お母さんは、「先生、五日前に息子に話をして、通帳と印を仏壇の下の引き出しへ入れてから、もう五日たちます。
私は毎日仕事から帰ったら、ドキドキしながら、仏壇の引き出しの通帳を見ます。使っていないのです。あの子は使いません。
今までは、見つけたら、すぐに使ってきました。あの子は立ち直ります。
ゆうべ息子が私に『おまえ毎日、通帳を見てるやろ』といいました。私は『おまえに悪いけど見てるよ。二日ほどは見るのがこわかった。それから後はうれしいから見てるんや』と言いました。息子はおどかすように『安心してたらいつ使うかわからんぞ』と言いました。
先生、気がついたのですが、この頃、私と息子は、親子らしい話ができるようになっています。これから、ちやんと相談ができると思います………」とのことだった。
息子は二百万円にはその後も、手をつけることはなかった。母さんの相談に、いくらか本気で考えるようになった。
しかし、遅刻・中ぬけ・早退・飛び出し・シンナー・深夜徘徊などは、あまり変化が見られなかった。
シシナーの注意をすると母親に「この頃あんまりやってないわ」と答えるようになっていた。母親は、相談のたび毎に、何回か、「あの子は少しずつ変わっています。あの子は立ちなおると思います」と言われて、相談員の私が励ましを受けた。
四回目の相談の時に、お母さんが、
「先生、○○学校の育友会の講演で『人間は分別して生ぎる動物だ。分別によりそい、分別を励ますことが大事だ』という話をされたでしょう。友達から聞きました。そんな話をされた”録音テープ”があったら借して下さい」と言われた。
私は手元にあった”人間の特徴と子育ての本質”という録音テープを『何もできないから、これをプレゼントします』と言って差し上げた。
お母さんは、倉庫番をしながら社長の許可を得て繰り返しテープを聞いて下さったようだった。「頭は悪いけれど何カ所か覚えています」と言って暗唱して聞かせでくれた。
「先生、私は子どものことを心配して育ててきましたが『自分で考え、自分でえらび、分別しで生きる人間だ』というように子どもを見ていなかったと思います。どこかで、子どもをばかにしていたところがあったと思います。子どもをたよりにし、相談するということは、子どもを分別する人間として見ることだと思えるようになりました。
私は二人の子どもをたよりにして、二人の子どもといっしょに生きて行こうと思います」と語り、初めの頃と比べると、ずい分明るくなられたのがうれしかった。
その頃、この家族を大きく変えるきっかけになる話が、親類から呼びかけられていた。
お母さんの妹夫婦(子どもの叔父・叔母)が奈良県に住んでおられた。この妹夫婦の夫から母親宛に、やさしい手紙が届いた。
「母子三人で大変だのに、長男が『非行』でよけい苦労が大きいだろう。借家の家賃も負担になるだろうから、家を買った方がいいのではないか。無利子・無期限で二〜三千万円なら貸してあげる用意があるから考えて見たらどうか」という手紙だった。
母親から、その手紙を見せてもらって相談を受けたたとき、「返してもらう気はないが、無利子・無制限の方が子どものためにも、気がねしないためにもいいだろう」と妹の夫が話しておられるということも聞いた。私は、母親の許しを得て、その叔父さんと電話で話しをさせてもらった。
「母親と長男と二人連名の借用書かあれば、家を買う金を借してあげてもいい」という意味の手紙を二人宛に出してもらうよう打ち合わせをさせてもらった。
間もなく奈良県の叔父さんから二人宛の感動的な手紙が届いた。
叔父さんからの手紙を読み合って、親子二人の相談がばじめられた。息子は、「おれが『非行』をやってるのを叔父さんが知ってるんかなあ」と言うので、母親は、「前にちょっと話しをしたから知ってるよ」というと「お母ちゃん、しゃべりやから。でも、知って貸してくれるんやな」と言ったりしていた。
二人で買う気になってから、久しぶりで娘を含めて親子三人て話し合い、家を買うことを合意した。
家を探しはじめてから何日か過ぎたある日、母親からの電話があり、はじめから泣きながら話しはじめた。
「先生、息子といっしに家を探しに行ってうれしいことがありました。紹介して頂いた、丘の上の家を私は気に入ったので『この家に決めよう、間どりもいいし、あの二百万円で早く契約しよう。ええやろ』と言うと、息子は『お母ちやん、あほか、この家はあかん」と言うので、私も腹が立ってきて、『もんくばっかり言うて』ときつく言いました。息子は窓の近くへ私を連れて行って、丘の下を指さしながら、
『見てみい。淋しい道じゃないか。ぼくは勉強せんけど、あいつ(妹)は勉強えらいから塾へも行きたがってるやないか。塾の帰りに、ぼくは迎えによう行かんぞ。家だけ見てもあかんやろ』
息子の言うことを聞いて胸がいっぱいになりました。妹の夜の帰り道まで考えている。私の気づかないことまで…、私はうれしくなって泣きながら、何かしやべりながら息子に、だきついて喜びました。息子は『きしょくわりわ』と言って私を突き飛ばしたのでころんでしまいました。たおれたままで、うれしくてとても幸せに思いました。
先生、あの子は絶対立ちなおると思います。」
探していた家が見つかり、親子二人で、叔父さんの家へ二千万円の金を借りに行くことになった。叔父さんから、現金でわたしてもらうことになっていた。
叔父さんの家で、息子は正座をして座り、用意してきた親子連名の借用書をわたした時、息子は、「叔父さん、ぼく、非行やってるけど、お金貸してくれるんかい」と聞きました。
叔父さんは、「わたしは、君とお母さんに金を貸すんやから、返してくれるかどうかは考えるけど、非行してる、してないは関係ない。返してくれると信用しているから、この金を貸すことにした。金調べなよ」と言って、にっこりされたそうです。
「叔父さん、もし、お金をよう返さなんだら、どうなるんですか」
「わたしは、君とお母かあさんは、お金を返してくれると思うから貸すことにした。もし返してくれなかったら、君とお母さんを見る私の目がなかったんだと思って、あきらめるだけだ。さあ、調べなよ」
と言って二千万円の札束を息子の前にさし出され、受取った息子は、ぎこちなく数えて母親にまわして二人で数えたそうです。
数え終わって立ちあがったとき、なれない正座で足がしびれて立てずに、ころがって大笑いしたとのことだった。
心配された叔父さんは、二人を和歌山まで車で送り安全に処理されるのを見とどけた。
その夜のことです。「話がある」と言って母親の部屋に入ってきた息子が、(中三になっていた)「ぼくは、一ケ月程前から、シンナーはやってない。二度とやらん。ぼくは高校へは行かん、卒業したら働く。中学校へは行くし行ったら教室で座る。教室で座るけど勉強はせん。もう、心配せんでもええ、わりことせんから、泣くな」と言った。この少年は、自分のことばで非行克服宣言をしたのだと思われる。
泣くなと言われたが、聞いていた娘といっしょに泣いたとのことでした。
この日から、長男の、遅刻・中ぬけ・早退・飛び出しなどの非行言動が影をひそめ、学校からの呼び出しもなくなった。
しかし、子どもが「教室で座るけど勉強はせんぞ」と言った通り、毎日教室で座っているだけで、ほとんど「イネムリ」を続けたようだった。
中一の夏から、乱れはじめ、中三の一学期の終わりまでの二年あまり、母親は我が子を信頼し、子どもの分別によりそい「相談できるのはおまえしかいないんだから」と子どもを頼って相談を続け、人間だけが持っている分別を励まし統けた。
相談員の私がしてきたのは、
「シンナーはだめと言い、心をこめて子どもに相談するという二つだけがんばってみませんか」と呼びかけたのと、何も助けてあげられない申訳なさから、握手をしただけで、何もしないで母親の話を聞くだけだった。
お母さんも、分別して生きる人間として、すばらしい子育ての道を切り開いたのである。
(おわり)
今回をもちまして、岡本佳雄さんの連載「いま子どもたちは」を終了します。長い間、ご愛読ありがとうございました。