1999年11月号HP掲載記事
「総合的な学習の時間」批判から
本物の総合学習の創造へ
――論点と課題を考える――
和歌山大学 船越 勝
月報 1999年11月号より
はじめに
いま、「新たな荒れ」といわれる子どもたちの「問題行動」の新たな広がりが、全国の学校現場で、
大きな実践上の課題となっている。今回の学習指導要領の改訂で、「総合的な学習の時間」が新設さ
れたが、こうした子どもたちの「荒れ」と日々向き合っている多くの学校では、教員のバーンアウト
とそれを原因とした休職・退職などと背中合わせの状況にあり、必要な教員の増加や施設・設備の改
善などの条件整備が整わない限りは、とても取り組める余裕はないという声も漏れ聞こえてくる。こ
うしたな条件整備の必要性は、全くその通りなのであり、条件整備の要求の組織化が求められている
のであるが、他方で、今日の「荒れ」の背景には、学びの問題が中心にあり、子どもたちの「荒れ」
は、「学びの世界」や制度としての学校から撤退しはじめているという性格を持っている
(注1)
とするな
らば、私たち教師は、「荒れ」への取り組みと学びの問題を切り離して考えるのではなく、「荒れ」
を克服するためにも、どのようにして子どもたちの学びを生活と科学に根ざした、自主的で共同的な
ものに転換していくかを追求していく必要がある。そして、そのための切り口の一つとして、「総合
的な学習の時間」の新設を逆手に取って、それを本物の総合学習の創造へとつなげていくことも重要
な戦略・戦術になってくると考えるのである。
教育課程審議会(以下、教課審と略す)の答申や新学習指導要領の発表以後、私たちは、それらの
持っている問題点について積極的に批判を展開してきたが、批判は批判として行いつつ、国民の付託
に応え、国民とともに創造していくという立場から、それらに取って代わる対案を提出する責務を負
っている。そこで、この小論では、私たちの運動を、「総合的な学習の時間」批判を本物の総合学習
の創造へと発展させていく上での論点と課題について検討することにしよう。
1 「総合的な学習の時間」新設の背景
まず、はじめに、「総合的な学習の時間」の新設も含めた今回の学習指導要領の改訂の経過とその
背景について見てみよう。一九九八年一二月一四日、小・中学校の学習指導要領と幼稚園教育要領が
告示され、また、一九九九年三月二九日には、高等学校と盲学校、聾学校及び養護学校の学習指導要
領も告示され、新しい学習指導要領の内容が最終的に決定された。今回の学習指導要領の改訂は、一
九九六年八月二七日に、文部大臣から「幼稚園、小学校、中学校、高等学校、盲学校、聾学校及び養
護学校の教育課程の基準の改訂について」の諮問を教課審が受けて始まったもので、教課審は、この
間、一九九七年一一月一七日に「中間まとめ」、一九九八年六月二二日に「審議のまとめ」を公表し、
翌七月二九日には最終答申を発表した。文部省は、この最終答申を受けて、学習指導要領の改訂作業
に着手し、学習指導要領案の発表を経て、新学習指導要領の告示へと至ったのである。
ところで、今回の学習指導要領の改訂の最大の目玉は、「総合的な学習の時間」の新設であるとい
われている。しかし、この「総合的な学習の時間」は、新学習指導要領の内容を方向付けた教課審の
議論から出てきたものではなく、一九九六年七月一九日に発表された中央教育審議会(以下、中教審
と略す)の第一次答申「21世紀を展望した我が国の教育の在り方について――子供に〔生きる力〕
と〔ゆとり〕を――」のなかで、その新設が提起されたものである。この中教審第一次答申は、財界
の二一世紀戦略にもとづいて、二一世紀に向けた支配の側の教育政策の再構築をねらったものという
ことができるが、中教審の審議過程のなかでも、「総合的な学習の時間」の新設は、最初から決めら
れていたのではなかった。つまり、「総合的な学習の時間」の新設という政策を選択する上では、一
定の背景があったのである
(注2)
それは、第一に、多国籍企業化した大企業の新しい教育要求があったということである。中教審第
一次答申は、これからの社会は「変化の激しい時代」、「先行き不透明な時代」であるという時代認
識を示しているが、これは、何よりも多国籍企業化した大企業の側から見た時代認識であるという点
が特徴で、国際的な「大競争時代」での生き残りをかける財界の危機意識が色濃く反映されている。
こうした大企業の危機意識から出されてくる新しい教育要求は、「国際化、情報化、科学技術の発展
等社会の変化に対応する教育」として、国際理解教育(中心は英語教育)、情報教育、科学技術教育、
環境教育などの内容を新しく実施するという教育政策に具体化されたのである。第二に、学校5日制
の完全実施による教育内容のスリム化の問題である。当時、日本の強い輸出力の根源である労働者の
世界一の長時間過密労働を批判する外国への配慮からも、学校五日制を二一世紀初頭には完全実施せ
ざるを得ず、そのためには、新しい学習指導要領の教育内容は大幅なスリム化が要請されていたとい
うことである。ここから厳選路線は決定されたのである。
しかし、第一の背景である多国籍企業化した大企業の新しい教育要求を受けた新しい教育内容の増
加は、第二の背景である学校五日制の完全実施による教育内容のスリム化とは、基本的に矛盾する問
題であった。中教審も、当初は、大企業の新しい教育要求を受けた新しい教育内容の増加という課題
への対応を教科の再編と新教科(記号科、環境科、人間科、表現科など)の設立で行おうとしたので
あるが、教育内容のスリム化という課題との調整が難しく、また、教科の再編・廃止は各教科の関係
団体の大きな反対を受けたこともあって、このような矛盾を何とか解決するために、いわば政治的妥
協の産物として突然出されてきたのが、「総合的な学習の時間」の新設だったのである。したがって、
その内容には、当然さまざまな矛盾が含まれてくることになる。
2 「総合的な学習の時間」の特徴と問題点
(1)「総合的な学習の時間」のきわだった特徴
「総合的な学習の時間」は、このような政治的妥協の産物として生まれたこともあって、おおよそ
まともな教育学的論理にもとづいたものとはいうことができない。以下、その点について見ていくこ
とにしよう。「総合的な学習の時間」は、新自由主義の立場から、教課審答申において、「国が、そ
の(「総合的な学習の時間」の――引用者注)基準を示すに当たっては、この時間のねらい、この時
間を各学校における教育課程上必置とすることを定めるとともに、それに充てる授業時数などを示す
にとどめることとし、各教科等のように内容を規定することはしないことが適当である」とされたこ
ともあって、新しい学習指導要領においても、総則のなかで簡単に指摘されているだけである。
具体的には、小学校学習指導要領を見てみると、まず第一に、「総合的な学習の時間」においては、
「各学校は、地域や学校、児童の実態等に応じて、横断的・総合的な学習や児童の興味・関心等に基
づく学習など創意工夫を生かした教育活動を行う」とした上で、第二に、ねらいとして、@自ら課題
を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、よりよく問題を解決する資質や能力を育てる、A
学び方やものの考え方を身に付け、問題の解決や探求活動に主体的、創造的に取り組む態度を育て、
自己の生き方を考えることができるようにすることが述べられている。第三に、学習内容としては、
@例えば国際理解、情報、環境、福祉・健康などの横断的・総合的な課題、A児童生徒の興味・関心
に基づく課題、B地域や学校の特色に応じた課題などがあげられている。第四に、各学校における
「総合的な学習の時間」の名称は、各学校において適切に決めることとされている。第五に、学習方
法や実施形態としては、@自然体験やボランティアなどの社会体験、観察・実験、見学や調査、発表
や討論、ものづくりや生産活動などの体験的学習、問題解決的な学習、Aグループ学習や異年齢集団
による学習など多様な学習形態、地域の人々の協力も得つつ全教師が一体となって指導に当たるなど
指導体制、B地域の教材や学習環境の積極的な活用などが述べられている。(中学校学習指導要領も
ほぼ同様の記述になっている)
(2)「総合的な学習の時間」の問題点と批判
それでは、「総合的な学習の時間」は、どのような問題点を持っているのか。第一に、社会を変革
するのではなく、自らのあり方のみを「主体的に」変えていく適応主義的な人間像が打ち出されてい
ることである。しかし、憲法や教育基本法、さらには子どもの権利条約が謳う子ども像・人間像は、
「平和的な国家及び社会の形成者」(教育基本法第一条)としての主権者、自らにかかわることにつ
いては意見表明権を持つ、権利行使の主体者としての子ども像であり、180度異なるものである。
第二は、問題解決を重視するなどの学び方学習へ傾斜した、方法主義の誤りに陥っていることである。
方法やスキルを教えることは必要なことであるが、それは学習内容や学習課題の指導とセットで行わ
れて初めて意味を持つものである。また、「総合的な学習の時間」を問題解決などの方法的側面に傾
斜して主張することは、逆に、各教科の学習を基礎・基本を徹底錬磨するものとして把握する二元論
的な発想になってしまう。第三は、「総合的な学習の時間」は、各教科、道徳、特別活動と並ぶ第四
の領域に形式的にはなっているが、指摘は総則だけという学習指導要領上の記述の簡略化の「功罪」
をどう見るのかについて述べてみよう。「功」としては、当然、従来私たち民間教育運動の側が批判
してきたように、科学と教科の研究成果にもとづかない内容を法的拘束力により細部にわたって強制
することをしないという点では、自由な教育実践ができるということで評価できるという意見が出て
くるであろう。しかし、他方で、「罪」としては、何も規定がないということは、「何でもあり」の
アナーキーな実践になってしまう危険性があるのである。つまり、英語と情報に特化したようなエリ
ート教育だって可能なのである。事実、文部省関係の研究者は、講習会などで、通学区域の弾力化の
問題と関連させながら、そうした方向性を推奨しているのである
(注3)。
第四は、財界の教育要求がストレートに持ち込まれた寄せ集めの教育内容であり、しかも、国際理
解・外国語会話、情報、環境、福祉・健康という四つの例示が強制力を持ってくる危険性があるとい
うことである。とりわけ、例示の強制は、教育委員会や校長会などの権力的な強制とともに、売って
いる本はほとんど四つの例示に基づいているという市場的な強制という二重の支配があることをよく
認識しておく必要がある。したがって、前者に対しては、例示は例示にすぎないとする交渉・確認を
教育委員会や職場の管理職に対して行うこと要請され、後者に対しては、自らの学校のカリキュラム
は自らで創るという本来の自主編成の姿勢が求められる。第五は、異年齢集団による学習は、無学年
制による選択などの形態で実践され始めているが、習熟度別クラス編成の強調とも相まって、これら
が基本になると、差異化・差別化へつながることも考えられる。
3 「総合的な学習の時間」をめぐる論争点
(1)「総合的な学習の時間」と総合学習は似て非なるもの
筆者は、これまで文部省のいうところの「総合的学習の時間」と私たちの総合学習という言葉を区
別しながら述べてきたが、両者は似て非なるものであり、両者には、次のような三つの違いがあると
考えている。第一は、「総合的な学習の時間」には、追求してはいけないテーマがあるが、本物の総
合学習にはタブーはない。たとえば、文部省の研究指定を受けた学校での環境学習は、絶対に企業責
任や国・自治体の行政責任を追及するような授業はせず、むしろ、空き缶やペットボトル回収など個
人のモラリティの問題に解消する。本物の総合学習は、当然両者を視野に置く。第二は、「総合的な
学習の時間」では、学びは個別化され、複線的に展開されて、共同化されることはないが、本物の総
合学習は、個人やグループの個別学習から出発する場合でも、その学びのプロセスおよび結果は交流
され、共同化される。第三は、「総合的な学習の時間」は、支配の側や「強者」の立場(たとえば、
「北」、男、資本家など)から学びを展開するのに対して、本物の総合学習は、民衆の側や「弱者」
の立場(たとえば、「南」、女・子ども、労働者など)から学びを追求する。すなわち、「強者」の
立場から同情的に見るのではなく、「弱者」の立場から、そこに隠されている支配や権力関係を読み
解いていくのである。
(2)教科教育と総合学習は対立しない
第二に、民間教育研究運動のなかにも、総合学習の重視は教科教育の軽視につながるという意見が
あるが、総合学習と教科教育は対立するものではなく、本来豊かな教科教育の実践を基礎にして初め
て、本物の総合学習は存在し得るということである。また、総合学習で学んだ力が教科教育に還流し
ていくということもある。つまり、両者の往還関係を豊かに追求していくことが重要なのである。
(3)総合は領域や「時間」だけの問題ではない
第三に、総合学習という場合、総合学習をとらえる三つの視点があるということである。すなわち、
@領域としての総合学習、A「時間」としての総合学習、B機能・視点としての総合学習ということ
である。今日、領域や「時間」としての総合学習に注目がいっているが、機能や視点としての総合学
習というとらえ方が実践を創造していく場合に重要になってくる。なぜなら、こうしたとらえ方に立
つと、領域や「時間」が仮になくても、教科教育の実践そのものなかにも総合の契機はあるというこ
とになり、柔軟でなおかつ豊かな実践を創り出すことにつながるからである。
他方で、「総合的な学習の時間」の研究指定校に往々にして見られることであるが、教科教育と総
合学習のつながりを重視するといっても、総合学習がふくらんでそればかりに時間がとられるという
総合学習の一人勝ちにならないように、常にカリキュラム全体のバランスも見ておく必要がある。
(4)生活科と総合学習の共通点だけでなく、違いを押さえる
第四に、移行措置を直前に控えて、三年生以上の総合学習と一・二年の生活科を総合的な教科とい
うだけで同一視して、一貫したカリキュラムを創ろうとする動きが一部の小学校に見られるが、両者
には、共通点だけでなく、違いもある点に注意を払う必要がある。カリキュラム論的には、生活科は
自然認識や社会認識を取り立てて学ぶ教科としての理科・社会科がないので、三年生以上への接続を
見通し、それらを意識した指導も求められるのに対して、総合学習は、理科・社会科が教科として併
存している。また、認識(発達)論的には、生活科は十分分析的な認識が発達していないなかでのい
わば「未分化総合」としての学習であるのに対して、総合学習は分化を前提とした総合なのである。
(5)「人権総合学習」の問題点
第五は、大阪を中心に行われている「人権総合学習」をどう考えるのかということである。筆者が
考える問題点として、まず第一に、人権はもちろん重要であるが、「人権」だけが肥大化したものに
なっているということである。第二は、同和地区をめぐる全国的な状況を考えた場合、同和教育が不
必要になってきている段階を迎えているが、「人権総合学習」は同和教育の生き残りのための手段に
なっている側面がある。第三は、そこで用いられている体験的参加型学習の活動的な性格だけが一面
的にもてはやされ、その限界が十分認識されていないことである。
4 本物の総合学習の創造へ向けて
(1)現実の課題に挑む総合学習の実践を
では、本物の総合学習の実践を創造するためには、いったい何が課題になるのか。第一に、学習内
容論のレベルでいえば、現実の課題に挑む総合学習という性格を明確にすることである。それには、
まず、例示の呪縛から自由になることが必要である。また、例示で示されている課題は、単純に拒否
できる問題ではなく、市民の側から見ても重要な課題であるので、財界の教育要求として現れている
「強者」の視点からではなく、民主主義が持つべき「弱者」の視点からの解読が求められる。さらに
は、例示以外にも、人権、ジェンダー、貧困、平和・軍縮などを現代が抱える多様なテーマを取り上
げていくことである。その場合に、教課審の「中間まとめ」には」なかった「児童生徒の興味・関心
に基づく課題」や「地域や学校の特色に応じた課題」という規定を自由で創造的な実践をつくるため
に活用することもできるだろう。
(2)まずはわが校の成果の確認から
「総合的な学習の時間」の実施に向けては、文部省筋は、教科の時間を削って作ったものなので、
全く新しい取り組みをせよという指導を強めているが、総合学習の実践は、これまでの私たちの取り
組みのなかにも、様々な形で存在していたものであり、だからこそ、今回、本物の総合学習のカリキ
ュラムを創る場合も、まずはわが校のいままで教科や教科外活動のなかで行われていたの総合学習的
な実践の成果を確認することから出発させるべきではないかと筆者は考える。そして、それをベース
にさらに子どもたちと学びあっていきたいテーマを膨らませるのである。
(3)教科教育も含めた学び全体の改革を
今回の学習指導要領の改訂にあたっては、「総合的な学習の時間」への対応にとどまらず、子ども
たちの「学びの世界」からの撤退が進んでいるからこそ、なおさら教科教育や教科外活動も含めた学
び全体の改革を追求するという視点が重要である。その点では、従来教科や教科外で行っていた総合
学習的な実践は、「時間」を活用して、時間不足からいっそうの「落ちこぼれ」が出ることが予想さ
れる教科や教科外の時間を確保することも大切である。しかしながら、他方で、時間確保にとどまら
ず、教科教育の実践についても、学びの質を問うという角度から、@学ぶことの意味の回復、A生活
の文脈性(実生活との結合)の復権、B学びの共同性という三つの課題の追求が求められている。
このように考えるならば、「総合的な学習の時間」を教科の時間に振り替えるという考え方につい
ても、低学力などの問題が厳しいといった地域の階層性の問題などとも絡んで、そういった選択はあ
り得るとかんがえる。しかし、それが伝達=注入的な授業の再生産となるなら問題解決にはならない。
あくまでも、学びの質も含めて、学び全体を改革するという文脈のなかに位置づけてはじめて意味が
あるのである。
(4)実施形態をどうするか
最後に、本物の総合学習のカリキュラムを創る場合に、実施形態をどうするかという問題がそのカ
リキュラムの性格を大きく規定する。実施形態は、大きく分けると、次のような四つが考えられる。
第一は、統一プラン型である。これは、すべての子どもに学校として教えたい内容を保障する上では
有利である。しかし、形式的に機能すると、押しつけにもなりやすく、和光小学校などがしているよ
うに、ベーシックプランとしての学習内容論の押さえと、実際の展開については担任に裁量を与える
といった柔軟性が必要である。
第二は、選択型である。これは、いわゆる「先進」校でよく見られるもので、学年内選択にするか、
無学年制にするかの二つのヴァリエーションがあるが、いずれにしても差異化・差別化につながる危
険性がある。第三は、学級担任指導型である。これは、子どもたちの興味・関心に基づいて実践でき
るし、教科や教科外などとの連関など柔軟な対応がしやすい。しかし、学ぶ内容が学級によってバラ
バラになることもある。第四は、教科担任指導型である。これは、教科(必修・選択)の学習に基づ
いて実践できるし、中学校では、「総合的な学習の時間」が選択教科と抱き合わせになっていること
への対応もしやすいが、差異化・差別化につながる危険性もある。これらのなかから、学校種の違い
やカリキュラムの性格や特徴から判断して、選択することになる。
5 総合学習の構想と具体的な実践
(1)小学校低学年の生活科・総合学習
小学校低学年には、先に見たように、生活科との関連で、総合学習は領域としては置かれていない。
筆者は、低学年の総合学習のあり方を考える場合、中央教育課程検討委員会の報告が指摘していたよ
うに、教科外活動のなかで行うのがいちばん自然であると考えているが、現行の学習指導要領では、
教科としての生活科が設置されているので、生活科と他の教科や教科外活動と関連させながら、総合
学習の実践をしていくことになる。
その場合、まず大切なのは、これまでの総合学習の理論や実践もまた強調してきたように、低学年
の認識発達の特徴が、自然認識や社会認識に分けて認識するというより、未分化のまま理解するとい
う点である。それゆえ、低学年の認識の指導を行う場合は、具体的な経験や体験をくぐらせながら、
リアルな事実認識をていねいに獲得させていくということである。したがって、低学年の総合学習は、
各教科の認識のように、分析した認識を総合するのではなく、いわば「未分化学習」としての総合学
習という形態をとるのである。
たとえば、小川修一氏の実践は、地域の生活のなかでの友だちであるザリガニを、子どもたちは教
室で飼育しながら、ザリガニそのものやザリガニの生態を学習していき、さらに、突然ザリガニがい
なくなったことから、自分たちの生活とザリガニの関係に目を向けるようになり、最後には、子ども
たちと保護者による「学校の近くのザリガニのいる小川」の保存運動にまで発展した実践であった
(注4)。
この実践では、教材であるザリガニを視点として、子どもたちはザリガニにかかわる自然・社会(未
分化な生活全体)を自然な形で学んでいっている。
(2)小学校中学年の総合学習
小学校中学年の総合学習は、各教科や教科外活動での学習の蓄積が一定行われているので、それを
基礎にした総合学習が可能になってくる。しかも、子どもたちの認識能力は、地域を中心的なフィー
ルドとしながらも、具体的なものや人を手がかりとしながら、それらを整理して把握することができ
るようになるからである。しかし、だからといって、子どもたちの認識能力は、まだ、九・一〇才の
壁を越えていず、具体的思考の段階であるので、早急な一般化は避けられなければならない。中学年
の実践例でいえば、小菅氏の実践記録『多摩川はつらいよ』は、子どもたちが、まず多摩川で魚を採
ったりして遊ぶことから出発し、次に、教科学習などで学んだ力を使って、多摩川の今日の実態や人
間の生活とのかかわり、歴史などの問題に取り組んでいく実践である。子どもたちは、そのなかで、
具体的には、川や水の汚れ、飲み水と川、排水と川の役割、橋と道路、自然保護、自然と人間の共生
などのきわめて今日的な課題にぶつかっていくことになるのである(注5)。
(3)小学校高学年の総合学習
小学校高学年の総合学習は、認識能力の発達からいうと、やはり、ものや人との具体的な出会いか
ら出発することを重視しつつも、しかし、九・一〇才の壁を越えて子どもたちが獲得しつつある、抽
象的な操作能力に依拠して実践していくことが大切になる。その際、このプロセスを通して、「基本
的な知識」を獲得させていくことにポイントを置いていくのである。したがって、高学年では、各教
科や教科外活動と関連させながら、平和・軍縮、環境・開発・公害、人権・差別、性・ジェンダー・
セクシュアリティ等に関する時事問題の学習を積極的に展開して、「基本的な知識」の獲得をめざし
ていくことになる。
たとえば、溝部清彦の実践では、子どもたちの日常生活に溶け込んでいるハンバーガーを取り上げ、
ハンバーガーと自分たちの暮らしの討論から出発し、グループでハンバーガーショップ・大使館など
の調査を行い、その結果、ブラジルから牛肉を輸入しているのがアメリカであり、それがブラジルの
熱帯雨林を破壊しているという事実を突き止める。その後、子どもたちは、これらの調査をもとにし
て、ブラジルは豊かになったかの討論、さらに、先進国と第三世界の立場を設定しての討論などを行
った
(注6)。
この実践は、子どもたちの日常的な問題をもとに、それを具体的な調査活動として行うこと
で、「北」の「南」に対する支配という南北問題をめぐる「基本的な知識」を獲得させることに成功
している。
また、和光小学校の総合学習「ヒロシマ」や総合学習「沖縄」は、修学旅行でのフィールドワーク
や社会科の歴史学習と結び付けながら、平和・軍縮に関する「基本的な知識」の獲得に取り組んだ実
践だといえる(注7)。
(4)中学校の総合学習
中学校の総合学習は、基本的には、小学校高学年の総合学習の形態と類似していて、「基本的な知
識」の獲得から確実な定着をめざすことになるのであるが、思春期を本格的に迎えた子どもたちの認
識能力の高まりから、「人とものとの関係」(典型は、労働)を中心とした小学校とは異なり、「人
とものとの関係」の背景にある見えない「人と人との関係」をも子どもたちに教えていくことが可能
になる。平和・軍縮、環境・開発・公害、人権・差別、性・ジェンダー・セクシュアリティ等に関す
る時事問題は、階層、エスニシティ、ジェンダーなどの人々の利害の対立が裏側にあり、そうした「
人と人との関係」をも解読していくという深まりを創り出すことができる。いいかえれば、異質な他
者の立場からの理解を本格的に問うことが可能になってくるのである。また、こうしたことを視野に
入れながら、地域課題についての学習も展開するとよい。
中学校の実践例では、春日井敏之氏が「地域調べ・私たちの城陽」「生き方を考え合う進路学習」
「職場体験学習、福祉体験学習」「阪神淡路大震災・神戸での聞き取り」などに、調査、体験、報告、
講習、討論などで取り組んだ実践を報告している
(注8)。
これは、社会科の授業や進路学習、社会見学な
ど教科や教科外活動を基礎にした総合学習の取り組みである。内容的には、人権や開発をテーマとし
た時事問題の学習とともに、地域課題の学習も取り上げられている。
同様に、奈良女子大学附属中・高等学校では、総合教科「奈良学」を設置し、複数教科の教師によ
って、奈良に関するテーマ(たとえば、古都、社寺、道、遺跡、町、伝統産業、伝統工芸・伝統芸能、
祭・年間行事など)を設定して、グループ学習を展開している(注9)。
(5)高等学校の総合学習
高等学校の総合学習は、高校生の子どもの発達課題が「基礎概念」の獲得とそれにもとづく社会事
象の概念的認識に特徴があるので、総合学習のあり方もより抽象度の高い、理論的な総合学習が可能
になる。すなわち、平和・軍縮、環境・開発・公害、人権・差別、性・ジェンダー・セクシュアリテ
ィ等に関する時事問題の学習なども、社会事象の具体相から出発して、科学的な知識を獲得するとい
う機能的なすじみちではなく、「基礎概念」をもとに、討論や調査などのかなり理論的な学習も展開
できるようになるのである。
たとえば、東京都の私立・大東学園では、総合科目「性と生」の実践に複数の教科の教師でチーム
を組んで取り組んでいる。この実践は、1学期の柱は「男女の性機能を科学的に知る」ことに置かれ、
2学期の柱は「性の商品化」を大きな柱として、とりわけ「性の場面での差別や不平等」について学
ぶことになっている。つまり、さまざまな新しい知識を獲得しながら、それを概念的な認識にまで高
めることがめざされているのである
(注10)。
また、吉田和子氏は、高校3年の「商業法規」の授業で、た
とえば離婚問題などのように、家族法、労働法、憲法を軸に自主編成をした実践を報告しているが
(注11)、
この実践なども一つの総合学習の実践ということができる。この実践は、高校生たちが出会ったこと
のないような事実との出会いを創り出しながら、彼女らのこれまでの理解を問い、新しい概念的認識
へと発展させる実践と評価することもできる。
さらに、高校生の認識能力の発達を考えれば、理論的な問題の本格的な調査活動も展開できるし、
これまで一部の高校で取り組まれてきた卒業論文の実践も、今回の高等学校学習指導要領の改訂で、
学校で独自に「学校設定教か・科目」を設けることができるようになったことを利用して、いっそう
追求できるだろう(注12)。
終わりに
移行措置を来年に控え、一部の学校では「総合的な学習の時間」への取り組みをめぐって過熱状況
が見られる。しかし、今大事なのは、「総合的な学習の時間」をどうとらえ、どのような総合学習の
実践を創り出すのかをめぐって、職場で合意形成をていねいにしていくことである。そのためには、
まずわが校の子どもは今どうなっていて、どのような教育が求められるのかという子ども論議を大切
にすることである。子ども論議から出発して教育課程の自主編成を進め、さらに父母・地域に開かれ
た学校づくりにつなげていこう。
(注)
(1)拙論「新自由主義とどう向き合うか」『生活指導』五一八号、明治図書、一九九七年、佐藤学
「子どもの危機と日本社会の未来」『経済』四三号、新日本出版社、一九九九年参照。
(2)拙論「今、なぜ総合学習なのかー中教審と『総合的な学習の時間』ー」『生活教育』五八三号、
星林社、一九九七年参照。
(3)山極隆「小学校における『総合的な学習の時間』の考え方、進め方」(第三六回近畿公立学校
教頭会総会研修大会和歌山大会、一九九八年一一月六日資料)参照。
(4)小川修一著『「お話聞き隊」が行く』民衆社、一九九九年参照。
(5)小菅盛平著『多摩川はつらいよ』農文協、一九九五年参照。
(6)溝部清彦「われら地球大使」『生活指導』四六二号、明治図書、一九九三年参照。
(7)和光小学校著『総合学習「ヒロシマ」』明治図書、一九八四年、同著『総合学習「沖縄」』
民衆社、一九九〇年参照。
(8)春日井敏之「中学校での実践の課題と可能性」行田稔彦・中妻雅彦編著『ともに生きる総合学
習』フォーラム・A、一九九九年参照。
(9)武田章「総合教科の試み」『歴史地理教育』五五九号、一九九七年参照。
(10)小嶋真奈「性を学んで、生を考える」『人間と教育』一六号、旬報社、一九九七年参照。
(11)吉田和子著『フェミニズム教育実践の創造』青木書店、一九九七年参照。
(12)和光高等学校著『高校生の研究学習』明治図書、一九八四年、同著『高校生のフィールドワー
ク学習』星林社、一九九三年参照。