1999年5月号HP掲載記事
ベトナムの人びとの生活――ホーチミン市からの報告――
和歌山大学教育学部 碓井岑夫
月報 1999年5月号より
はじめに
タンソンニャット国際空港の灼熱の陽光はまぶしく、激しく私たちを迎えてくれた。
着陸直前に窓外に見えたメコンデルタは、川が大きく蛇行し濃い豊かな緑がことのほか印象的であった。関
西空港を出発したのは、3月下旬でも暖かい陽春の日であったが、ホーチミン市は気温36〜7度の「暑期
」であり、外気に接した瞬間、その暑さに圧倒される思いだった。
東アジアの国々を歴訪する研究会の旅は、その国の小、中学校の訪問と授業見学がかならず組み込まれてい
る。今年は、滋賀大学に大学院生として留学中のフエ(HUE)さんの協力によって、ベトナム訪問が実現
した。
ミンドック中学校と生徒たち
ホテルからバスで10分ほどの、市内中心部で路上市場のはずれに、ミンドック(Min Duc=明徳
)中学校はあった。名称からわかるように、もともとは中国・福建省系の学校で解放前は中国語で授業が行
われていたという。市内最大規模の中学校で、しかも市外からも生徒が来るほどの有力校のようだ。4学年
64クラス、生徒数3、425人、教員160人。この学校には、日本の学校では当たり前になっている「
学校要覧」的なものがいっさいなく、フエさんの通訳によって校長からの説明を聞き取るしか方法がない。
学校施設が不足しているため、二部制授業方式をとっており、午前の部は7時から11時20分まで、午後
の部は、13時から17時まで。30%の生徒が午前と午後の両方の授業を受けており、この生徒たちのた
めに校舎の4階部分に、たくさんの枕が並んだ昼寝室があった。どんな生徒が両方の授業を受けているのか
は、残念ながら聞き漏らした。
教室は、木製の長机・長椅子形式で50〜60人を越える中学生たちが窮屈そうに詰め込まれていた。だ
いたい教師がマイクを使っていたので、その理由を聞くとのどを痛めないためだという。廊下側は窓ガラス
がなく、日差しを遮る大きなビニール製のすだれが掛かっているところもある。校舎建築はお世辞にも立派
と言えないが、たくさんの生徒がいるわりに外側仕切が低く、日本だったら転落する心配があると参加者が
いう。生徒が廊下を走り回ったり、ふざけあうような光景にはであわなかったから、それは杞憂なのであろ
う。
男女生徒とも上は白色のブラウスかカッターシャツ、下は紺色のスカートかズボンで、これが中学校の制
服らしきものだろうか。よく見ると形は様々だから、制服を一斉購入しているとは思えない。いわゆる肥満
の生徒は少なく、こざっぱりした服装であるが、ピアスをしている生徒がたまにいた。先生も授業をすると
きは、民族衣装のアオザイを着用しなければならない。暑さのためか総じてサンダル履きで、日本の多くの
学校のように上履きを使用しない。台湾製のデスクトップ型のコンピュータ30台ほどが並んだコンピュー
タルームは教室では唯一クーラーが入っており、そこではサンダルを脱いで素足で2人で1台のパソコンに
向かっていた。
同校の卒業生の70%が公立高校、25%が私立高校へ進学するとのこと、学校の「公高私低」は中学校
も高校も同様で、いじめの有無をきいたときも、「私立にはあるかも知れませんが、国立(公立)にはあり
ません」との答えが校長から返ってきた。入学試験で選抜し、授業料は月1米$だが、払えない生徒もいる
とか。
英語の授業
午前8時から、第6学年(中学1年)の「英語」の授業を参観。42人の特別クラス。教室内はコの字型
に二重に机が配列されており、20代の若い教師が、オーラルで前時の復習をし、本時は[be goin
gto]のパターンプラクティスである。教師がパネルを示しながら、What are you goi
ng to do next week? Where are you going to stay?
など問いかけ、指名された生徒がテキストにしたがってそれに答える。次は、生徒同士で暗唱しながらや
りとりをし、その内容や発音を教師がチェックしていた。stayやtionの発音がベトナム的でなんと
なく親しみを覚えた。続いて、/i/と/i:/の発音の区別をスペルから判断させる競争をクラスを二分
しておこない、手拍子と歌で応援しあいクラス中がエキサイトして盛り上がった。途中、テープレコーダー
が動かないというトラブルがあったが、授業は整然と進んだ。
教師と生徒との関係は、よい意味で「師弟」関係であり、一定の緊張と節度が感じられたのは、小生だけ
の感想だろうか。授業終了後、日本の学校のように、先生の周りに生徒がまとわり付くとか、逆に、先生を
無視する風もない。午後の小学校でも同様の印象である。終了後、私たちは生徒と短時間交流したが、生徒
たちはみんな積極的で楽しかった。参加者の若い人たちの周りに、生徒の輪ができるのは当然であった。
このクラスは英語の特別学級で、テストで選抜された生徒が週10時間も英語を学ぶ。若い女教師は大学
で英語を学んだといい、かなり厳しく教えていたのは特別クラスのためであろうか。生徒も間違いを質され
ると、何度も言い直して真剣に取り組んでいた。普通学級では週4時間であるから、英語学習にいかに力を
入れているかがわかる。この国では、英語が話せることは就職に有利であり、そのために終業後、英会話学
校に通う生徒や社会人もいるようだ。
休憩時間も興味をもった。日本の学校のように体育館や広い運動場がないので、校舎の中庭に1000人
を超える中学生が集まっておしゃべりをするわけだから、圧巻である。中庭の葉の生い茂った高い木が日陰
を作っているが、気温は高く暑かった。狭い中庭だからボール遊びをすることもできず、ただただ友だちと
のおしゃべりで時間を過ごす。ただ、校内に町中の商店のように広告を掲げた売店があり、食べ物や飲み物
を売っており、氷水を飲んでいる生徒もいた。この間、先生たちは教員室で休息し、次の時間が始まると生
徒を引率して各学級に入っていくため、全員が引き上げるのに10分くらいかかったのではないか。これは
、4階までの階段はそれほど広くないので、危険防止の意味もあるのかと勝手に解釈した。生徒は全体的に
小柄で、日本の中学生に比べると幼く見えた。
下町の小学校
ホーティエンドン(Hoh Thien Dong)小学校は、市の中心部から少し離れた下町的な感じ
のところで、ミンドック中学校がモデル校的であるとすれば、同校ははるかに普通の学校である。グエン・
コック校長先生が玄関先まで迎えてくださり、にこやかに両手で包み込む握手、HUEさんの恩師とのこと
。中学校の校長室が飾り戸棚の中にスポーツの優秀賞トロフィー、ペナントや生徒の活躍する写真があった
のに対して、小学校の校長室は質素でコンクリートの床上に3つ事務机と細長いテーブルが並んでいるだけ
。中庭を挟んで反対側に2階建ての校舎が建築中であった。
現在、児童数1、049人で、教職員47人、うち教員が28人、職員として少年団指導者、組合書記、
共産党委員などがいるが、通訳を介しての話で正確さを欠くかも知れない。就学率は、98%で卒業生の8
0%が国立(公立)中学校へ進学するとのことであった。
生徒は中学校と同様の制服。上級生には赤いネッカチーフをした生徒がいるが、彼らは学力優秀、品行方
正の生徒で旧ソ連のピオネール少年団のような集団である。
授業終了後に、中庭で新しい団員の任命式に立ち会った。リーダーの女子生徒がマイクで任命式の呼びか
けを行い、スピーカーから流れる曲にあわせて小太鼓隊が式の雰囲気を盛り上げる。新しい団員は青色のシ
ャツを着ていて、名前を呼ばれると前にでて整列し、全員が揃ってから少年団指導者から赤いネッカチーフ
を首に掛けてもらい、自分で結んでいた。選ばれた生徒は誇らしげで、他の生徒は少しうらやましそうに見
ていた。
静かな挙手と教師の権威
小学校では、「算数」「文学」(国語)の授業をみせてもらったが、私は、授業内容よりも教師の教授方法や
子どもの学習態度に興味を引かれた。
小学校、中学校とも授業中はずいぶん静かだ。無言で机に右手の肘をつけた低い挙手は共通で、日本の教室
風景を見慣れている者には、授業の盛り上がりに欠けるし、子どもの活動が見えにくい。教師と子どもの関
係がそのまま教えと学びのタテの関係に移っているし、教師からの課題の提示に対して、子どもの学習が展
開されるという古い型の学習である。したがって、教室における教師の権威が文部省が示す教育内容と「教
え込み」型授業方法の両面から補完される構造が見える。日本の戦前の教室がこのようにあったのではない
かと想像する。
教師の指示は言葉だけでなく、指示棒で教卓をトントンとたたくだけで、子どもは教師に注目し、指示に従
う。挙手方法といい、指示棒のメッセージといい学習パターンが教え込まれているようだ。また、算数の授
業では、子どもたちは各自が机にはいるくらいの小黒板をもっており、先生の指示で計算式をチョークで書
いて一斉に教師に向けて見せる。まるで明治時代の石板と石筆の再現だ。教師がそれを点検し、重要な計算
だけをノートにボールペンで書いていた。国語の授業では、小さな字でていねいにきれいに書いていて、参
加者は大人が書いたのかと思ったほど。ノートや筆記具が大事にされており、そこには、低学年の教室らし
いざわつきもおしゃべりもなく、教師の言葉を聞き漏らすまいとする真剣なひとみがあった。真剣な様子に
感心してすばらしいとほめると、「日本では行儀良く授業をうけないのか」と怪訝な表情であったようだ。
文字通り「整然」とした授業である。
教室正面の黒板の上には、「ホーチミン元大統領」(ホーおじさん)の写真があり、その下にベトナム語で「い
つまでもホーおじさんのことを忘れないでおこう」と書いてあった。他方、教室掲示がほとんどなかった。
学校が子どもの生活空間というよりも、教育訓練空間の印象が強かった。
教師の低賃金と学校事情
先生たちとの懇談を通じてわかったベトナムの教育事情の一端を紹介しよう。
ベトナム社会主義共和国の学校教育制度は、5・4・3・4制で小学校5年間が義務教育期間となっている。
服部論文によると、96年の小学校就学率は全国で85%であるが、ミンドック中学校の校長は、都市部で
は100%に近いという。学校週5日制であるが、木曜日と日曜日が休校日になっている。
教師の社会的地位は高くないようであり、賃金水準は低い。定年前の女性校長が月給40$、1般教師の平
均月給は25$、週15時間程度の授業という。教師はアオザイ着用で、かばん1つで教室に出かけて、授
業が終わればさっと引きあげる。日本のように、子どもの生活指導までも抱え込むようなスタイルとは違う
と感じた。物価はかなり安いが、教師同士の共働きでは生活できないと低賃金を嘆いていた。市中でTシャ
ツを1枚2$で観光客に売っていたくらいだが、経済成長率が低いためかインフラ整備、教育投資が遅れて
いる印象をもった。
ドンと米ドル
ベトナムの通貨はドンで、VDと表記されていた。この国には、いわゆる硬貨(コイン)に相当するものは
なく、最小の流通貨幣が200VD、最高は500,000VDの紙幣で、それぞれにホーチミンの肖像が
描かれている。ホテルで両替したときは、折りたたみ財布が紙幣で膨らんで折れなくなり、一瞬、随分とお
金持ちになった気分になった。小額紙幣ほど汚れて傷んでいるのは、市民生活に馴染んでいるからであろう
か。私たちの経験では、円よりも米ドルが強く、ベトナムの経済を支配しているように感じた。しかし、M
さんの米ドル立てのTCがホテルでは両替してくれず、探し歩いたアメリカンシティバンクでやっと米ドル
のキャッシュを入手したくらいだから、TCがあまり使われていないのだろう。
金銭感覚でも異文化体験をした。町中でモノを買うとき、かならず値切りなさいと教えられてきたので、み
んなそれなりの知恵を絞って安く買ったつもりである。同行のFさんイラストを見て安いか高いかの判断を
乞う。異文化体験とは、金銭感覚がかなり違うことだ。Fさんの話。日本へのハガキにホテルの窓口で70
00VD払ったのに、帰国してみると貼ってあった切手は5700VD、クチトンネルの入場料は表示がな
くて、前日行った人が3ドルだったのに私たちの時は5ドルだった。とにかく表示がないから押し問答して
もラチがあかなかった。
添乗員のチュンさんの説明では、欧米からの観光客はアメリカよりもフランスが多いらしく、ホテル内でも
フランス語や非英語言語が聞こえていた。ベトナムがフランスの植民地であった歴史は、統一会堂(旧大統
領官邸)、市民劇場(旧国会議事堂)や聖母マリア教会の建築に見ることができる。この旧宗主国フランス
の伝統、ベトナム戦争によるアメリカの深い傷跡もあり、戦争資料館などでは外国語による説明はフランス
語が英語に先んじていた。アメリカからの観光客は、ホーチミン市ではレックスホテルという高級ホテルに
泊まるのが通例らしい。ただし、ホーチミン市そのものには、歴史的な遺跡などは少ないので、観光地とし
ては魅力に乏しいと思った。
クチトンネル
ホーチミン市の北東70kmのところにクチトンネルがある。ベトナム戦争時に旧首都サイゴンを包囲し、
陥落の前線基地となったジャングルのなかの地下基地である。そこには、全長200kmをこえる三層の地
下トンネルが縦横に掘られ、作戦指揮室、会議室、手術室、弾薬庫が配置されており、アメリカ軍の度重な
る攻撃にも屈せず、傀儡政権を打倒することになった。そのベトナム民族の楽天性と不屈の思想性の高さの
シンボルのような場所であり、その一部が公開されている。
ジャングルの樹木は意外に低く、現在ではせいぜい5、6mくらい、昼なお暗いと言う感じはしない。公開
されているトンネルを若いガイドが案内してくれ、地下4mくらい長さ15mの狭いトンネルを全員大汗を
かいてくぐった。暗闇の坑道は狭くて小さくかがんで進むほかなく、身体の大きなアメリカ人兵士が通れな
いことは十分に想像できた。地下三層の50mのトンネルに挑戦する勇気と体力がなく、ここは若手の参加
者に任せた。ジャングルのあちこちに、鋭い竹の矢ぶすまをもった落とし穴、間道出入り口、B52爆撃機
から落とされた爆弾クレーター跡が残されている。
私のような世代には、ベトナム戦争には特別な思い入れがあり、民族独立の闘いとして安保闘争後の青年の
歴史的課題であった。クチトンネル紹介ビデオでは、M60戦車の下に爆弾を抱えて飛び込んだ若者の話な
ど、さまざまな戦争英雄美談が語られていた。現在公開されているクチトンネルの一部だけを見学しての感
想だが、トンネルの状況やアメリカ軍の破壊能力からして、そこになんらかの裏取引きがあったのではない
か、と考えてしまった。つまり、アメリカは何度も繰り返されていた和平交渉の進行を見ながら、クチトン
ネルへの攻撃をしかけ、ベトナム撤退のタイミングと大義名分を探っていたのではないだろうか。落とし穴
やどんでん返しのトンネルを破壊できない爆弾が無いはずはなく、そこまで踏み切れなかったのは、アメリ
カ国内の反戦世論とベトナムの民族自立の不屈の精神があったためではなかったか。
HONDAが溢れる街
私たちは、到着後ホテル行きのバスで、現地添乗員のチュンさんから ・道路横断は走るな ・乞食、ひっ
たくりに注意 ・生水を飲むな、と注意をうけた。・・はともかく・の意味が車中ではわからなかったが、
町中に出てみると恐怖をともなって実感できた。
市民の主要な交通手段はバイクと自転車である。バイクはメーカーの如何を問わずすべて「HONDA」と
呼ばれ、ほとんどがノーヘルメット、バックミラー無し。飲酒運転という交通法規もないとか。市内には交
通信号が少ないが、信号のない交差点では車の流れが途切れると反対車線のバイクが一斉に走り出すという
「無秩序のなかの秩序」ともいうべきルールがあった。だから、横断歩道を渡るときは、バイクが人をよけ
るのを期待して、ゆっくりと渡るのだが危険で怖い。下手に信号を増設すると、市内のあちこちで大渋滞を
起こすのではないか、が素人判断。自動車はバイクの陰で存在感がうすいが、日本車が少ない。バスはかな
り古く、もちろん冷房などはないが、通勤時間帯には超満員である。
昼間は、家族(バイクは定員大人2名、子どもはノーカウント)3ー5人が合い乗って市場に行く風景を見
かけたし、夜になると涼を求めて、若いカップルがけたたましい騒音をまき散らして群になって走り回る。
そのHONDAの渦を止めずに横断したときは、生きた心地がしなかった。ホーチミン市から70kmの、
有名なベトコンの地下基地クチに行ったときには、市外に出ると、住民には道路のセンターラインの感覚が
なくて、警笛を鳴らし続けて対向車が自己主張しあうような運転ぶりに私たちは何度も肝を冷やした。道路
においては、人も、自転車も、HONDAも、自動車も対等平等というベトナム的社会主義が徹底している、
と笑った。
市内にはフランス植民地時代の建物がある。宿泊したホテルも1860年くらいに建てられたもので、各
部屋の天井が高く、大きな樹木が陰をつくっている中庭がある。エレベターも1階がGで2階が1と表示し
たヨーロッパ風だった。社会主義国でも中国のように建前だけの政治スローガンが市内に書かれていたりし
ない。外国人にたくましく物売りする子どもや物乞いもいたが、庶民はマイペースでにぎやかに生活を楽し
んでいるところがホーチミン市だ。長さ30cmくらいのフランスパンが2000ドン(日本円=20円)
、路上市場のヌードル(フォー)は安くておいしそうであったが、食中りが恐くて手が出せなかった。
滞在中、生水には十分気をつけていたつもりだが、ほとんどの参加者が旅行中か帰国後に一過性の強烈な下
痢に悩まされたことを書き加えておかねばならない。
また、写真・内容などで同行者の方々に多大なご協力を得たことを感謝する。ただし、文責は筆者にある
。